世界史の歴史地図へのお誘い
特集 エーゲ文明
−ホメロスの英雄物語の時代−
クノッソス宮殿 クレタの美人 地中海交易 海の民 ミケーネ文明の崩壊 暗黒時代
(これらの歴史地図・図解は、『世界史地図・図解集』にも収録されています)
(概説)前13世紀頃に実際におこったとされるトロイア戦争に題材をとったギリシアの最古最大の叙事詩『イリアス』と『オデェッセイア』の作者とされているのがホメロスです。しかしホメロスの実在はあきらかではありません。東地中海沿岸では、オリエントからの影響のもとにヨーロッパではじめての青銅器文明が誕生しました。これをエーゲ文明といいます。エーゲ文明は、まずクレタ島で栄えました。前2000年ころにはじまるクレタ文明は壮大で複雑な構造をもつ宮殿建築に特徴があります。一方ギリシア本土では、前2000年ころ北方から移住したギリシア人が、クレタやオリエントの影響をうけて前16世紀からミケーネ文明をきずきはじめました。ミケーネ文明の諸国は前1200年ころ突然破壊され滅亡しました。その後ギリシアは400年ほど続く暗黒時代とよばれる混乱した時代にはいり、鉄器時代に移行していきました。
クノッソス宮殿(部分復原図)
古代クレタ島に紀元前2000年頃,強大な権力を持つ王達が現れ,クノッソス,ファイストス,ハニアなどに宮殿を造りました。これらの宮殿建築に共通している点は,大きな中央中庭を持ち,その周りにかなり複雑な平面を持った建物群が取り巻いていたことです。その配置には明確な軸線や対称性がなく,宮殿の威容を示す巨大なスケールの建物もありませんでした。そのためこの複雑な平面を持つ宮殿建築が後世ギリシア人に迷宮の伝説を生みだしたという説もあります。
クノッソスはクレタ島北岸のほぼ中央にあり,海岸から約4km離れていました。宮殿を中心に市街が広がり,市壁のない市域のなかに約8万人の人口があったと想像され,さらに港の住民を含めると約10万人の人口を擁していたと考えられます。
宮殿は東側と南側とに傾斜した斜面に建っており,およそ2.5haの敷地を占めていました。約60m×26mの中央中庭の西側は南北にはしる中央廊下によって区分され廊下の西側に倉庫群,廊下の東側に「玉座の間」や聖所など公用部分がありました。中央中庭の東側は陶器の工房その他の仕事部屋と,王とその家族の居室部分などから成り立っていました。中央中庭の北側の建物は管理部分あるいは事務所と考えられ,海路運ばれた品物がここで仕分けられ,倉庫に収められました。中央中庭の南側の建物に宮殿の南正面玄関がありました。
クレタの美人
前2000年ころにはじまるクレタ文明を築いた人びとはその民族系統は不明ですが,外部からの侵入者への警戒心がうすく,その宮殿は防備のための城壁をもちませんでした。クノッソス宮殿の壁画には「クレタの美人」(「クレタのパリジェンヌ」ともいわれます)にみられるように人物や,タコやイルカなど海の生物が写実的にいきいきと描かれています。クレタ文明が開放的で明るく平和な文明であったことがうかがえます。
地中海交易(前2000〜前1450年)
青銅器の製法は前2000年代にオリエントで発達しました。ヨーロッパの大部分の地域は,オリエントから輸入された錫,銅,その合金(青銅)に依存していたので,青銅器時代には交易が飛躍的な発展を遂げました。こうして,地中海は経済の新しい中心になりました。これらの交易ルートの中心がクレタ島でした。クレタ人はキプロスへ行って銅を調達し,エジプトや遠くイギリスから輸入した錫と混ぜて合金をつくりました。エジプトからは,小麦,金,象牙,パピルスが入ってきました。クレタ島はブドウ酒,オリーブ,羊毛,織物を生産する豊かな土地であり,その社会では,職人と芸術家が生活で大きな役割を果たしていました。そのことを,発掘された大量の壺や水差し,小立像や装身具が物語っています。
地中海交易(前1450年頃)
ドイツの考古学者シュリーマンはミケーネの遺跡で,豪華な埋葬品をおさめた竪穴墓群を発見しました。これらの墓は紀元前16世紀すなわちミケーネの勢力が強くなりはじめたころのものでした。黄金の仮面や,冠と衣装,金,銀,アメジスト,琥珀といった宝石,金や銀製品,ファイアンス,アラバスターの壺,駝鳥の卵でできた水差し,象牙製品はすべて,地元の資源や,外国との交易によって支配者が手に入れた豊かな富を示しています。
ミケーネ文明の時代になると,西アジアや,とくにキプロス島の人々の活動が盛んとなり,その結果,複雑な交易の国際ネットワークができあがりました。とくに銅(キプロスおよびアナトリア産)や金(エジプトおよびクシュ産)などの金属は交換品として重宝されました。更に,コクタンや象牙(クシュから),ラピスラズリ(アフガニスタンから),琥珀(バルト諸国から)など遠い地域からもたらされた品物もありました。
ミケーネの陶器(香油を入れる容器)は日常的に交換されていたらしく,広範囲の遺跡で見つかっています。またオリーブ油やおそらくブドウ酒なども,ギリシアとエーゲ海地域からの輸出品として重要でした。
海の民(前1200年頃)
海の民は紀元前13世紀末から前12世紀の初めにかけて,アナトリアおよびシリア,パレスチナなど地中海東岸一帯に来襲して,前代の体制を一挙に崩壊させた混成移民集団です。原住地は判然としませんが,バルカン南部,エーゲ海域を経由して侵入しました。パレスチナに植民したペリシテ人はその一派です。アナトリアのヒッタイト王国は滅亡し,シリアの諸都市も多くが破壊され,かろうじてこれを撃退したラムセス3世(在位前1198〜前1166)のエジプト新王国も弱体化しました。なお,製鉄技術を独占していたヒッタイト王国の滅亡により,製鉄技術は諸国に広がり,オリエントは鉄器時代に入りました。
ミケーネ文明の崩壊
ミケーネ文明の終焉は,多くの遺跡に残された破壊の跡に示されています。陶器に残された跡から紀元前1225〜1100年頃に起こったとされています。その崩壊の原因について,今まで「海の民」やドーリア人の侵入であると考えられてきましたが,近年今までの説に疑問が生じています。その結果さまざまな原因が提唱されており,集中過剰,経済の衰退,飢餓,技術の変化,下層階級の蜂起などが,崩壊をもたらしたと考えられてきました。
最近では,ギリシア北部のテッサリアを拠点に海から侵入してきた略奪団(海賊)のせいで崩壊したという説が強く支持されています。しかし確かなことはわかりません。はっきりしていることは,この時期からギリシアの歴史が400年ほど続く「暗黒時代」という闇のベールに隠されてしまった時代にはいり,鉄器時代に移行していったということです。
暗黒時代のギリシア(前900年頃)
ミケーネ文明の世界は,一般的に,紀元前1200年頃かそれにつづく数十年のうちに崩壊したと考えられており,その後は紀元前9世紀までギリシアの暗黒時代がつづきました。この暗黒時代に,ギリシア本土の多くの定住地が破壊され,人々は本土からキプロス島やロドス島,小アジア沿岸へ移っていきました。
暗黒時代は,ミケーネ文明の時代とは多くの異なる点があります。まず「巨石」の城壁に似たものがまったく発見されていません。象牙や青銅などの工芸品の製造も,衰退したか中止されました。文字の使用もなくなりました。使用されなくなったことについて,官僚主導の王政が崩壊し,分散した農業集落に変わったことが原因という説明がなされています。
西アジアでは,紀元前9世紀にアッシリア王国が興り,勢力圏を拡大していました。東地中海では,フェニキア人の都市国家の交易網が拡大し,かれらの植民活動は,アフリカ北西部沿岸からシチリア,サルディニア,スペイン一帯に広がりました。ギリシア人の植民活動も,イタリア南岸やシチリア,コルシカからフランス南岸へと広がり,エーゲ海北部の沿岸地方や黒海沿岸地方にも植民を行いました。そして,ふたたび文字が使われるようになったのは紀元前8世紀で,ミケーネ時代の線文字Bにかわり,フェニキア文字のちのアルファベットが用いられ,ここからギリシア世界がはじまりました。