最終更新日2026年8月21日
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話題・江戸時代



260年余の江戸時代の歩みを説明し、また理解することは容易なことではありません。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が読みまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
教科書を読んでいると、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。



剣豪宮本武蔵
 1645(正保2)年5月19日、前肥後藩主細川忠利(ただとし)の客分として、5年前から熊本に滞在していた二天一流剣法(武蔵流)の祖、宮本武蔵が、この日、62年の生涯を終えた。
 武蔵の生まれは播磨とも美作(みまさか)ともいわれ、父は十手の名人の新免無二斎である。幼少より剣法を心がけ、13歳で初めて試合に勝って以降、京都では吉岡清十郎と、奈良では宝蔵院と立ち会い、29歳で佐々木小次郎と小倉巌流島で決闘するまで、60余度の試合に1度も負けることはなかったといわれる。この間、諸国を遍歴し、独特な二刀流の奥義をきわめた。関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、大坂の陣や、のちには島原の乱の鎮圧にも活躍したといわれる。
 30歳を過ぎてからはひたすら剣理の追求・鍛錬を重ね、50歳になったころには兵法の道を体得した。5年前、熊本に移ってからは細川忠利の求めに応じ、みずから編み出した二天一流剣法を「兵法三十五箇条」にまとめて提出した。2年前の秋から岩戸山にこもって兵法書『五輪書(ごりんのしょ)』を執筆していたが、亡くなる7日前に脱稿した。『五輪書』は地水火風空の五輪に擬せられたもので、内容は兵法理論に加えて他流批判、修行の末の境地などを説いている。
 武蔵はまた、書・画・彫刻などにもすぐれた才能を発揮して、多くの作品を残している。とくに水墨画では、気迫のこもった鋭い表現を特色とし、代表作には禽鳥(きんちょう)類を描いた「枯木鳴鵙(めいげき)図」などがある。

市中整備と生活統制をねらい、江戸に「市中法度」出る
 1648(正保5・慶安1)年2月28日、幕府は、江戸市中を対象に、道路・下水や服装など幅広い範囲で日常生活をこまかく規制した「市中法度」を布達した。
 ぬかるんでいる道路には、浅草砂に海砂を混ぜ中央を高くして平均に敷き詰めること、下水の樋(とい)や道路脇の溝は、つねに塵芥(じんかい)を取り除いておくことなどを指示し、違反者の処罰も規定した。服装についても、一般の町人、店借(たながり)、借屋住まいの者別なく、絹物は絹紬(つむぎ)に限るとし、華美な服装を禁止した。そのほか、橋の上での商いや物乞いをすることも禁止した。また、町に住む浪人の身元を確認し、不審な浪人には宿を貸さないように指示している。
 さらに4月には、大坂でも、町人の旅行以外の帯刀の禁止、召使いの服装制限、武士に対する無礼な行為の禁止、50歳未満の者の駕籠利用の制限など、町人の日常生活にこまかな制限が示された。

幕府が、東海道・中山道筋の女手形の発行元を指定
 1648(正保5・慶安1)年11月10日、幕府は、女性が関所を通過するさいに必要な「女手形」の発行元を詳細に定める通達を出した。
 1635(寛永12)年に幕府の関所制度が確立して以来、江戸に入る鉄砲と江戸を出る武家の女性は、それぞれ鉄砲手形と女手形を所持しなければならなかった。鉄砲手形の発行権が老中にあるのに対して、女手形の発行者は複雑で、とくに重視された江戸からの出女の手形は幕府の御留守居が、禁中・西国などを出る女手形は京都所司代が発行した。
 1648(正保5・慶安1)年の通達は、西三河は岡崎藩主、東三河は吉田藩主、遠江(とおとうみ)は浜松藩主、信濃は松本藩主、駿河は駿府の町奉行が女手形の発行を担当するというものである。東海道や中山道の筋ごとに女手形の発行元を明確にして、女性の移動に対する統制と監視を強化するねらいであった。
 関所では、この発行者の判鑑(はんかがみ)と手形の判を照合して、ときに記された髪形・容貌の特徴と比較して、真偽のほどを確認した。

陽明学の祖、中江藤樹
 1648(正保5・慶安1)年8月25日、陽明学者の中江藤樹が死去した。享年41歳であった。
 藤樹は伊予の大洲加藤家に仕えたが、27歳のときに郷里の母への孝養と病気を理由に致仕脱藩した。故郷の近江国高島郡小川村(現、滋賀県安曇川(あどかわ)町)に戻ってからは、酒の小売りなどで生計をたて、学問に専念した。
 17歳のころから独学で朱子学を修めた藤樹は、やがて儒教の礼法に固執することの弊害におもいがいたり、自由な道徳思想を唱えた。その後、37歳のときに、王陽明の書物に接したことから陽明学を主唱、日本の陽明学の祖と呼ばれた。
 藤樹は諸国に多くの門人をもったが、なかでも岡山藩主池田光政の藤樹への尊信は有名である。門下からは熊沢蕃山などが輩出した。著作には『翁(おきな)問答』などがある。死後、藤樹の名声はますます高まり、「近江聖人」と称されるようになった。
 1650(慶安3)年6月、2年前に亡くなった中江藤樹の門人たちによって、藤樹の『翁問答』全5巻が刊行された。
 その内容は、天君(てんくん)と体充(たいじゅう)という2人の架空の人物の問答形式をとり、みずからの新谷(にいや)藩からの脱藩の経験をふまえて、「士道(さぶらいどう)」の思想を中心に人としての道を説いている。とくに「万民はことごとく天地の子なれば、我も人も人間のかたちあるほどのものは、みな兄弟なり」と、主君も家来も社会の役割のちがいにすぎないと、人間の平等性を説いたところに特色がある。

お蔭参り、江戸時代初の大ブームに
 1650(慶安3)年3月、この年に入って伊勢大神宮のお札が降ったといううわさが広まり、全国から老若男女貴賤を問わず、伊勢神宮に参拝する者が連日数万人も押しかけた。とくに東国から箱根関所を通過する者は最初は1日500人から900人程度だったが、この3月半ばから急増し、以後5月まで、1日平均2,000人にも及んだ。江戸時代最初の「お蔭参り」である。
 この時代、人びとはだれしも一生に一度はお伊勢参りをすることを念願としていたが、大きな旅費がかかるため、伊勢講を組んで代参してもらうのがせいぜいで、丁稚(でっち)、小僧、棒手振(ぼてふり)などや、水呑百姓、小作人には一生、伊勢参りは不可能だった。
 ところが、伊勢大神宮の御札が天空から降るとのうわさがたつと、伊勢の神が参宮を勧誘していると考えられ、このときばかりは無断で参宮しても、領主や主人、親方も親も大目にみた。そのため奉公人や農民、女子ども白衣に菅笠(すげがさ)をかぶり、筵(むしろ)を背負い、手に柄杓(ひしゃく)をもって参宮に出た。さらに、参宮者を助けるのは功徳(くどく)になるというので、街道筋の裕福な商人や寺院などは食料や宿泊所を無料で提供した。このような施行(せぎょう)のおかげで伊勢参りができるところから「お蔭参り」と呼ばれ、これ以降、ほぼ60年周期でブームとなった。

本百姓と水呑百姓、百姓株
 江戸時代の農村を構成していた農民にはさまざまな階層があったが、中核をなしたのは高請(たかうけ)・高持(たかもち)百姓ともいわれる「本百姓」である。彼らは江戸時代初期に行われた検地で検地帳に登録され、田畑や屋敷を持ち、年貢や諸役を負担した。これに対して「水呑百姓」は、田畑を持たず貢租を負担しない村内の下層農民であった。
 しかし、のちになると検地帳に登録され屋敷を持つ農民のなかにも本百姓でない者も生まれた。結局、本百姓と水呑百姓とを分かつもっとも重要な点は、村内に一定にしかない入会権や用水権を保証した百姓株を持つかどうかにあった。
 百姓株は村内に開拓や耕地の余地があるあいだは発生しなかった。しかし、余地が限度に達すると、農民の数が限定されて百姓株が生まれた。そうなると百姓株の売買や譲渡も行われた。百姓株の有無は農村内でさまざまな権利の有無、さらには家の格差も生み出した。