260年余の江戸時代の歩みを説明し、また理解することは容易なことではありません。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が読みまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
教科書を読んでいると、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。
●宮崎安貞の『農業全書』が出版される
福岡藩主黒田氏に仕える農学者宮崎安貞(やすさだ)が1696(元禄9)に『農業全書』10巻を著したが、『農業全書』は翌1697(元禄10)年7月に出版された。なお、安貞は出版された7月の23日に死去した。享年75歳であった。
のちに活躍する大蔵永常(ながつね)とならんで江戸時代有数の農学者と評される安貞は1651(慶安4)年に福岡藩に召し抱えられて200石を給されたが、いったん致仕した。致仕したのちは近畿をはじめ諸国を巡り、農業の実態と農民の生活を実見するとともに、各地で農業技術を学んだといわれる。福岡藩への再仕後は農村の振興、開墾の指導に努めていた。
安貞は中国の明代末に徐光啓の著した『農政全書』を参考にして、みずから見聞した日本各地の農法を整理・総合して『農業全書』にまとめあげた。同書は、農事総論から始まり、五穀・薬草・果木・生類養法・薬種などの項目に分類、みずから研究・体系化した詳細な農業技術論を展開した。8代将軍吉宗は『農業全書』を座右の書の一つとしたと伝えられている。
●越前福井藩、特産奉書紙の専売体制固める
1699(元禄12)年、福井藩は紙会所を設置して、特産品である奉書紙の流通・専売を統括させた。この頃、商品経済の発展とともに諸藩は競って特産品を奨励していた。なかでも換金商品として高い価値のあった紙は、各藩がこぞって保護育成につとめた。
越前五箇荘では室町時代から越前鳥の子(雁皮紙(がんぴし))や越前奉書紙を作ってきたが、江戸時代に入って越前奉書紙が幕府の公式文書である奉書に使用されて以来、特権的な地位を獲得した。また、広く武家の公用紙としても用いられたため、ますます需要は拡大した。福井藩は紙会所の設置によって、利益の独占だけでなく、品質の管理や向上に努めようとした。
●赤穂浪士46名に、武士の礼をもって切腹を命ず
1703(元禄16)年2月4日、幕府評定所は、前年12月15日未明、吉良邸に討ち入りした赤穂浪士46名に対する処分を決定した。だだちに、浪士たちが預けられている熊本藩細川家・伊予松山藩松平家・長州藩毛利家・岡崎藩水野家に上使が赴き切腹の命を伝えた。即日、46名は自刃した。
すでに討ち入りから1か月半を経ての決定だが、その背景には、幕府内部での意見の対立もあったと伝えられる。大学頭(だいがくのかみ)林信篤や室鳩巣(むろきゅうそう)らは浪士たちを「義士」と呼び、助命を願ったが、一方、荻生徂徠(おぎゅうそらい)や太宰春台(だざいしゅんだい)らは、内匠頭(たくみのかみ)は法によって罰せられたのだから、上野介(こうずけのすけ)に復仇するのは筋が通らず、「義であるが私」であるとした。
結局、評定所の決定は、幕府禁止の「徒党」を致し、「飛道具など持参」したことを不届きとしつつも、「主人の仇を報じ」武士として大義を貫いた行為に免じて、武士の礼をもって切腹を命じるというものとなった。
●鉄製千歯扱が発明され、脱穀作業に革命
1703(元禄16)年、この頃、千歯扱(せんばこき)が発明された。収穫した籾(もみ)の脱穀には手間がかかったが、従来の扱箸(こきばし)という脱穀具に代わって、千歯扱が発明され、脱穀の能率が大いにアップした。
千歯扱は4脚つきの床木に、先の尖った鉄片を櫛(くし)の歯のように密に並べて植え込んだもので、従来の扱箸に比較しておよそ10倍能率が上がったといわれる。麦を扱(こ)くための千歯扱は1688(貞享5・元禄1)年刊行の井原西鶴の浮世草子『日本永代蔵』にも登場するが、竹を鉄に変えることで稲扱きにも利用できるようにしたものである。
こののち、鉄製千歯扱は急速に普及する。そのため、これまで扱箸の手伝いで生計を補っていた後家の仕事を奪う結果となったため、「後家だおし」とも呼ばれた。
●5代将軍綱吉死去、6代将軍家宣登場
1709(宝永6)年1月10日、前年末から麻疹(はしか)にかかって病床にあった5代将軍綱吉が、この日死去した。享年64歳だった。足かけ30年に及ぶ綱吉の時代に幕を閉じた。その在任前半期の政治は綱紀粛正に成果を上げたが、やがて側用人柳沢吉保(よしやす)らを寵用し、加えて生類憐れみの令で人々の生活を苦しめた。
同年5月1日、江戸城において、朝廷の勅使を迎え将軍宣下(せんげ)の礼が執り行われた。これによって、徳川家宣(いえのぶ、当時48歳)は征夷大将軍の位を得て、正式に6代将軍の任についた。綱吉は、5年前、兄の子綱豊(家宣)を養嗣子とし、江戸城西の丸に入れた。家宣は、綱吉の葬送が終わる前に生類憐れみの令を撤廃するなど、新しい政治をスタートさせた。
●新井白石、『西洋紀聞』を著すが、おおやけにされず
新井白石は、1709(宝永6)年にイタリア人宣教師シドッチを小石川の切支丹屋敷で取り調べたが、その記録をもとに1715(正徳5)年、『西洋紀聞』を著した。
同書は上・中・下の3巻構成となっている。上巻ではシドッチの潜入から取り調べ、さらに獄死にいたる経過を述べている。中巻には5大州の地理、諸国の政治・風俗・物産、スペイン継承戦争・北方戦争の経緯などが記されている。。下巻はキリスト教についてのシドッチの解釈と新井白石の解釈と批判が述べられている。
同書の内容のうち、地理書としての部分は同じ白石の『采覧異言』に及ばないが、キリシタン教義の解釈と批判を述べた下巻は、その明快さがきわだっている。白石は、この教義には、偶像・受戒・読経があり、天国・地獄、輪廻や因果応報の思想があって、一見したところ仏教と似ているがそれには遠く及ばないとした。さらに、デウスが天地を創造したというが、ではデウスはなによってつくられたのか、天国や地獄にいたっては迷妄であると断じている。
こののち、同書は国禁のキリスト教に触れた部分があったため、長く新井家に秘蔵されることとなった。