最終更新日2025年7月7日
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世界史の学習室


分裂するフランク王国

次の文の( )に適する語句を入れ、図版の空欄に適語を答えよ。

 カール大帝の帝国は中央集権国家のようにみえたが、実際は大帝と伯との個人的な結びつきのうえに成立していたものにすぎなかった。そのため大帝の死後内紛がおこり、843年の(1)条約と870年の(2)条約により、帝国は東・西フランクとイタリアに分裂した。これらの国はそれぞれのちのドイツ・フランス・イタリアに発展した。
 東フランク(ドイツ)では、10世紀初め、カロリング家の血筋が断絶すると、各部族を支配する諸侯の選挙で王が選出されるようになった。ザクセン家の王(3)は、ウラル語系の(4)人やスラヴ人を撃退し、北イタリアを制圧して、(5)年教皇からローマ皇帝の位を与えられた。これが(6)帝国の始まりである。皇帝位はドイツ王が兼任したが、(6)皇帝はイタリア支配に積極的に乗り出し(これを(7)政策という)ドイツ本国統治をおろそかにしたため、国内不統一をまねいた。
 西フランク(フランス)でも10世紀末にカロリング家の血統がとだえ、パリ伯(8)が王位について(9)朝をたてた。しかし王権の支配はパリ周辺などせまい領域にいきわたるのみできわめて弱く、王に匹敵する大諸侯が多数分立していた。
 イタリアでもいちはやく9世紀後半にカロリング家は絶え、その後、(6)帝国の介入やイスラーム勢力の侵入などで国内は乱れた。ローマを中心にした(10)とならんで、北イタリアにはジェノヴァやヴェネツィアなどの都市が独立した。

分裂するフランク王国


分裂するフランク王国2


答え
(1         )(2         )(3         )(4         )
(5         )(6         )(7         )(8         )
(9         )(10         )(11         )(12         )


解答
1ヴェルダン 2メルセン 3オットー1世 4マジャール 5 962 6神聖ローマ 7イタリア
8ユーグ=カペー 9カペー 10教皇領 11ヴェルダン 12メルセン


(センター試験 改)

 フランク王国分裂後、東王国でカロリング王統が絶えると、教皇はザクセン家出身の王にふたたび西ローマ帝冠を授けた。次の短文中で、この事実と同一世紀に属さない事実を一つ選べ。

@ 西フランク王国では、ユーグ=カペーが王位についた。
A ノルマン人が、後のノルマンディーに定着することを認められた。
B イングランドでは、ウィリアム1世が王位についた。
C ファーティマ朝が、首都カイロを建設した。


解答 B
解説
東フランク王国では911年カロリング朝が断絶し、選挙王政になり、962年ザクセン家のオットー1世が帝冠をうけた。
@について、987年のこと。
Aについて、911年ロロがノルマンディー公となる。
Bについて、1066年ウィリアム1世が王位について、ノルマン朝を創始する。
Cについて、969年のこと。


(共通テスト 改)

 オットー1世について述べた文として最も適当なものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。

@ メロヴィング家の王を廃位した。
A レオ3世によって戴冠された。
B カタラウヌムの戦いに勝利した。
C マジャール人を撃退した。


解答 C


(世界史の言)

「ローマは一日にして成らず」

 ローマ帝国はけっして短期日のあいだにできたものではなく、長い周到な努力のすえ、はじめて形成されたとの意味。本来はセルバンテスの『ドン=キホーテ』のなかのことばである。



(この問題は『世界史標準問題』に収録されています。また、問題で使われている地図・図版は『世界史地図・図解集』に収録されています。)