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小説の部屋
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招 待 状
(https://net-hub.jp/~hnakayam/kuka_01.html)


上舘 かなる


 ロビーのカウンターで二十階といわれ、早茄枝は怪訝に思った。毎年、春に行われる某短大の講師会に来ているが、いつもは地下一階か三階の宴会場で、二十階でやったことなど一度もなかったからだ。二十階ですね、と聞き返したが、受付嬢は職業的な笑顔とともに「はい、二十階です」とはっきりと告げた。
 駅に隣接するホテルは、反対側に三十数階にも及ぶタワーホテルができるまでは凛とそびえてあたりを威圧していた。このホテルが建ったばかりの頃、一度だけ最上階の展望ラウンジで会食をしたことがある。夜景を見ながらディナーをとるのは、ちょっとした贅沢だった。非常勤講師を務める某短大の講師会は、打ち合わせというより顔合わせの懇親会の性格が強い。今年はずいぶん奮発したものよ、とほくそえんだ。
 まだ観光シーズンには間があるからか、エレベーターの前に客の姿は皆無だった。扉が開いて、狭い箱のなかに早茄枝はひとりきりだった。
 高速の、しかし、かなり旧式の仕様らしいエレベーターは奇妙な上昇音ときしみをたてて上っていった。そして、小さな横揺れと不快な音を立てながら、頭打ちされるような感覚を早茄枝にもたらしてエレベーターは止まった。
 またしても大きな音とともに扉が開き、早茄枝はなぜか押し出されるようにして、二十階に立った。
 ここが二十階、問いを発する形で早茄枝はおもわずつぶやいていた。
 ラウンジなどではなかった。目の前に広がっていたのは照明の極端に暗いホールだった。
 五六脚ずつ積み重ねられた椅子が、何カ所も壁際に並んでいる。足下のピンクの絨毯は厚みがあって早茄枝のパンプスのヒールを飲み込んでしまうほどだが、あちらにもこちらにも茶色いシミがついている。人の気配はまるでない。
 受付嬢から「二十階」と聞いたときの漠然とした違和感を、早茄枝は思い出した。目の前に大きな観音開きの扉が二つある。なかで宴会でも行われていれば多少の物音が漏れてくるのではないか。
 しかし、音が漏れてくるどころか、あたりは不気味なほどに静まりかえっているのだ。
 早茄枝はふわふわと頼りない絨毯にパンプスのヒールをのめり込ませるようにして扉の前に立った。
 耳を澄ましても、ことりとも音がしない。
 試みに扉に手をかけ引いてみる。鍵はかかっておらず、ギィーと鈍い音を立てて開いた。
 なかは真っ暗である。闇のなかに突然光が流れた。見ると、窓のあるあたりだけ、レースのカーテンを透かして町のネオンの灯が飛び込んできているのだった。早茄枝は光に誘われるようにしてなかに足を踏み入れていた。
 背後で鈍い音を立てて扉が閉まった。早茄枝はどきりとして振り返った。けれど、別に驚くにはあたらない、宴会場の扉とはこんなふうに勝手に閉まるものなのだから、早茄枝はドキドキする胸を押さえた。もう戻ろうと思うのに、脚が分厚い絨毯にのめり込んだように動かない。
 あたりに目が慣れてくると、前方に白とピンクのテーブルクロスをかけたテーブルが10卓ばかりも見えた。自分が見当違いの場所に案内されたことはすでに明らかになっているのに、早茄枝は一歩二歩と前に足を進めていく。自分の意志でというより、なにものかに押されるようにして。
 一つ、二つ、とテーブルを数えだしたそのとき、奥の方でいきなり、ジャーン、と両手でピアノの鍵盤をたたきつけるような音がした。はっと目をこらすが、何も見えない。
 厭がる脚を無理に押し出させられるようにして早茄枝は、ついに雛壇までたどり着いた。
 そのとき、背後に妙な気配を感じた。切りそろえた髪の下の細いうなじに、ひやりと冷たい風の気配を感じたのである。いや、風と言うよりは冷えた薄い金属の歯のような感覚である。
 思わずうなじに手をやった。
 ぬめりとしたものが指先に触れる。早茄枝は厭な気分になって、指先を目の前に近づけた。折から差し込んだネオンの灯に、指の腹に付着した赤黒いものが照らし出された。
 早茄枝は心底、どきりとし、わななく口元をその掌で覆った。ヒィ、と声がもれる。
 そのとき、ガタンと窓に何か突き当たるような音がして、早茄枝は、はっとして目をやる。と、ガラス越しに白いふわりとしたものが闇の中に落下していくのだ。
 早茄枝はあたりはばからぬ大絶叫を響かせた。
 どのようにしてそこから飛び出してきたのか、気がつくとすでにエレベーターに乗っていた。
 フロントは二階、早茄枝はふるえる声で何度もつぶやき、細長いボタンを押した。
 エレベーターは急速に落下していく。下降するたびに空気の抵抗感と、おかしなきしみ、振動がついてくる。
 さっき上がってきたときの時間を考えれば、すでにフロント階に到着していてもよさそうなものなのに、落下は依然として止まらない。そして、落下速度もまたいよいよ度を増すように思われるのだった。
 早茄枝はその間に、さっきあの部屋で起きたことを否応なく思い出させられた。
 そうだ、ここへは一度来たことがある、早茄枝は何ものかに強要されるようにして自ら過去の封印を解かねばならなかった。あの落下の厭なきしみとともに、数々の映像がフラッシュバックする。
 当時、早茄枝は某総合商社の主任をしていた。三十歳になったばかりだ。早茄枝はいまでこそアパート経営のかたわら短大や専門学校でビジネスマナーなどを教えて自由気ままに生きているが、当時は人でごった返すオフィスで朝から夜遅くまで働いていた。
 その年にたった一人の肉親である父親が死に、かなりの遺産を手にした。父親はいわゆる地方の名士で、事業を手広く展開していた。早茄枝を猫かわいがりして、早茄枝のわがままをどこまでもきいてくれた。怒られたことなど一度もない。上司が早茄枝ばかりにつらく当たったときなど、大事な商談を後回しにして直談判のためにやってきたくらいだ。
 ここへ来たのは後輩である香奈の結婚式のときだった。香奈は社員のなかでは唯一の高卒だった。有名大学を出て有力なコネを持った社員ばかりだったころ、香奈だけは何の後ろ盾もなく、当時の部長の「今時珍しい骨のある子だ」という一声で入ってきた子だった。
 家には病弱な母親が一人。香奈が家計を担っていた。受付業務以外は制服のない会社だったから、高給取りの女子社員は取っ替え引っ替え高価なブランド品で決めてきたが、香奈だけはいつも地味なスーツ姿だった。
 しかし、部長が推薦したとおり香奈は有能だった。仕事の覚えも早く独創的な提案を次々に出したりして、三、四年もすると陰の課長などと言われるようになっていた。気さくで親切なので後輩たちの受けもよかった。
 早茄枝は正直おもしろくなかった。香奈が、形ばかりは自分を立てはするが、その実、少しも尊重していないこと、だれもが早茄枝より香奈を頼りにしていること、早茄枝が新入社員にかならずやる「愛のいびり」にも、香奈だけはへこたれなかったこと、早茄枝が香奈に対して許せないことは数え上げればいくつもあった。おとなしいくせに押しても引いても動じない藤の性のような強靱さが、香奈にはあった。
 そのうえ、香奈は、早茄枝が目を付けていた取引先の有望株、向川原草太と相思相愛の仲になってしまったのだ。
 結婚式の招待状が届いたのはその年のまだ雪深いころだった。早茄枝はその日のためにオートクチュールでドレスをあつらえた。イギリス製のレースをふんだんに使った薄いピンクのドレスと帽子だ。
 香奈の衣装はシンプルで、たしかに彼女の美貌に似合ってはいたけれど、早茄枝のドレスの前では貧弱に見えた。早茄枝の席はちょうど雛壇の真ん前だった。おまけに早茄枝は自分に注目を集めるために、あえて少し遅れて出席したのだ。雛壇に座っている香奈の表情が、瞬間、青ざめたのを忘れない。
 それでも式は滞りなく終わった。新郎新婦はたくさんの友人たちに祝福されながら新しい生活を出発させた。いかにも幸せそうだった。
「まるで花嫁に対抗しているみたいじゃない、早茄枝さんのドレス、あれじゃ、失礼にもほどがあるわ」
 早茄枝は出席した同僚たちから非常識だと陰口をたたかれていたことなど意にも介さなかった。
 早茄枝は二人の結婚直後から、あらゆる方法で、彼らの生活に介入した。亡き父親の名を使って向川原草太をディナーに招待したり、高価な時計やゴルフセットを送り届けたり。
 そうだ、こんなこともした。廃線になった「慈別」の駅舎に、願掛けのようにして二人の名前を書いた札を下げてきたこともあった。別れられない男女が、あるいは別れたくはないけれども別れなくてはならない男女が、いつのころからかその駅舎に札を下げるようになったというのを聞きつけたからだ。傘マークの右と左に向川原草太、香奈と書いて下げてきたのだ。
 香奈がしだいに心を病むようになり、夫婦の間に溝が生まれていったことを人づてに聞いた。そして香奈が白いウエデイングドレスをまとって、マンションの屋上から真っ逆様に身を投げたのは、それから三年後のことだった。
 エレベーターは落下し続ける。
 早茄枝の顔面はひきつり、すでに蒼白である。
「ねえ、あたしはなにも悪いことなんかしていないわ。それでも謝れというなら謝るわよ」
 早茄枝は床にぺたりと座り込み、目には見えないが確実に存在するらしい何ものかに謝罪しつづける。顔は涙ととけたアイラインで二目と見られぬほどだ。
 落下の速度はいよいよ速くなる。早茄枝は大仰に身体をふるわせ、懇願し、泣き叫んでいる。
 駅舎に残した偽りの札が、遠のいていく早茄枝の意識の底にあった。