最終更新日2024年10月7日
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−イタリア戦争(1494〜1559年)−
イタリア戦争は,ハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアの覇権をめぐって繰り広げた戦争です。ミラノ公国とナポリ王国の継承争いから始まったこの戦争は,その結果として,北イタリアにおけるフランス勢力はほとんど一掃されましたが,神聖ローマ皇帝がドイツを不在にしたため,ドイツにおけるルター派勢力の伸張にも有利に作用しました。
1494年,フランス王シャルル8世が「ヴァロワ=アンジュー家からナポリを継承した」と主張し,翌年ナポリを占領しますが,教皇,神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世,ヴェネツィア,ミラノなどが同盟を結び対抗したため,1495年に撤退します。1498年,シャルル8世が死去し,ヴァロワ家の直系が絶え,ヴァロワ=オルレアン家のルイ12世がフランス王となり,翌1499年,新王は「父オルレアン公からミラノを継承した」と主張して侵攻,1500年ミラノ公国を征服しますが,1513年フランス軍が追放されます。1515年,ルイ12世が死去しフランス王にフランソワ1世がなると,新王はミラノに侵攻,再びミラノを支配します。
マクシミリアン1世の死後,1519年,孫のスペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝に即位してカール5世となりスペイン王を兼ねました。フランスはハプスブルク家に両側(ドイツ・スペイン)から挟まれる形になり,重大な脅威を受けることになったため,フランスは戦略上イタリアを確保することが必要になりました。
1521年,教皇レオ10世はカール5世と結び,フランス支配下のミラノを攻め,奪還します。1525年のパヴィアの戦いで捕虜となったフランソワ1世は,1526年,釈放される代わりにイタリア,フランドル,ブルゴーニュへの請求を全て取り下げました。
1535年,ミラノ公フランチェスコ2世が死去し,カール5世がミラノ公妃の母の兄にあたるためミラノ公を継ぎました。カール5世の子フェリペが公国を継承すると,フランソワ1世はイタリアに侵攻しましたが,ミラノの包囲に失敗します。フランソワ1世はオスマン帝国のスレイマン1世と同盟を締結,1542年,神聖ローマ帝国に宣戦布告し,ミラノはまたしても戦争の口実となりました。しかし,1544年,帝国軍がフランスのイタリア傭兵隊を撃破したことで,イタリアにおける戦いが終わりました。
1547年,フランソワ1世が死去し,息子のアンリ2世が即位します。1551年,アンリ2世はカール5世に宣戦布告,イタリアを再征服し,ヨーロッパでの覇権をハプスブルク家から取り戻そうとしました。戦争の最中の1556年,カール5世は神聖ローマ皇帝からもスペイン王からも退位しました。神聖ローマ皇帝はカール5世の弟フェルディナント1世が継承,スペイン王位はカール5世の息子フェリペ2世が継承しました。これ以降,戦場はイタリアからフランドルへと移りました。
しかし,スペインとフランスは相次いで長年の戦争で財政がもたなくなり,さらにフランスはユグノーにも対処しなければならなくなりました。アンリ2世は1559年,カトー・カンブレジ条約受諾を余儀なくされました。この条約により,アンリ2世はイタリアへの請求を全て取り下げ,ミラノ,ナポリ,シチリア,サルデーニャなどを獲得したスペイン=ハプスブルク家の優位が決定づけられました。これによってイタリア戦争は完全に終結しました。