最終更新日2026年10月20日
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世界史の歴史地図へのお誘い
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大学入試世界史歴史地図問題


−ヨーロッパ諸国のアジア進出−

次の文の( )に適語を入れ、問いに答えよ(西南学院大 改)。

 アフリカ南端をまわるインド航路を開拓したポルトガルは、1510年インドの(1)を占領して、ここをアジア進出の拠点とし、さらに翌年イスラーム教の王国でもあった貿易の中継地(2)を占領し、東南アジアの諸島なども勢力下においた。ポルトガルは、1517年には通商を求めて使節を明朝の中国に送り、1557年には広州湾の(3)に居住権を得て、中国さらには日本との通商を、約100年にわたって独占した。
 一方、スペインに関しては、航海者の(4)が王室の援助を受けて、南アメリカ南端をまわって、1521年にフィリピン諸島に到達した。スペインは(a1571年)に、マニラを拠点として築き、メキシコ経由のアジア貿易を展開した。
 1581年にスペインからの独立を宣言したオランダは、貿易活動に乗り出し、1602年に東インド会社を設立し、ジャワ島のバタヴィアを根拠地として勢力を広げた。1623年には、モルッカ諸島の(5)島でオランダ人がイギリス商館員を虐殺するという事件が起こった。オランダはこれを転機として、インドネシアからイギリスを締め出し、1641年にはポルトガルから(2)を奪い、香辛料貿易を独占するに至った。また長崎を窓口として、鎖国以降の日本とも交易を続けた。
 イギリスは、1588年にスペインの無敵艦隊を破って、(6)年に東インド会社を設立した。東インドには、既にポルトガルやオランダから進出しており、結局、イギリスは(5)事件以後、専らインド経営に力をそそぐことになり、ガンジス・デルタの(7)などがその拠点となった。しかし1664年にはフランスも東インド会社を再建し、ベンガル湾岸の(8)などを拠点として、イギリスに対抗した。その後、インドにおける英仏抗争は、政治支配権の争いとして展開し、1757年の(bプラッシーの戦い)によって、イギリスのインド制覇は決定的となった。

問1.文中の(a)(b)について、次の問いに答えよ。
(a)について、1571年にスペインなどの連合艦隊がオスマン帝国艦隊を破った海戦を答えよ。
(b)について、プラッシーの戦いで活躍した東インド会社の書記で、初代ベンガル知事となったのは誰か。
問2.下図のA〜Fは問題文に関係する地である。A〜Fの地名を答えよ。

ヨーロッパ諸国のアジア進出


答え
1(     )2(     )3(     )4(     )5(     )
6(     )7(     )8(     )
a(     )b(     )
A(     )B(     )C(     )D(     )E(     )
F(     )


解答
1(ゴア)2(マラッカ)3(マカオ)4(マゼラン(マガリャンイス))5(アンボイナ)
6(1600)7(カルカッタ)8(ポンディシェリ)
a(レパントの海戦)b(クライヴ)
A(マカオ)B(マラッカ)C(アンボイナ)D(カルカッタ)E(ポンディシェリ)F(ゴア)