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世界史の歴史地図へのお誘い
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特集 古代オリエントの統一

−本格的な世界史のはじまりの時代−



インド=ヨーロッパ語系民族の移動  前21〜前15世紀のオリエント  前14〜前12世紀のオリエント

海の民の侵入(紀元前1200年頃)  アッシリアの統一  アケメネス朝ペルシアのオリエント統一

(これらの歴史地図・図解は、『世界史地図・図解集』にも収録されています)


インド=ヨーロッパ語系民族の移動

インド=ヨーロッパ語系民族の移動

 前3000年頃に始まる北半球での気候の寒冷化と乾燥化が、インド=ヨーロッパ語系諸族の移動をひきおこしたとされます。前2000年頃から各地に展開し、そのうち都市文明と接触した諸族が新たにギリシア・イラン・ガンジス川流域などに有力な国家を建設しました。馬(オリエント世界に初めて登場)と戦車を使用し、オリエントに進出したヒッタイト人は、鉄器の使用と発達をもたらし、諸国の動乱や生産力の増大が促されました。
 なお、インド=ヨーロッパ語系諸族の原住地については、従来は黒海北岸からカスピ海北岸にかけての草原地帯とする説がとられていましたが、近年では今日のポーランド周辺を原住地とする説もあります。


前21〜前15世紀のオリエント

前21〜前15世紀のオリエント

 紀元前2千年紀初頭に移動を開始したインド=ヨーロッパ語族は,オリエント世界に大きな変動をひきおこしました。ヒッタイト王国やミタンニ王国などの征服王国や,さらに語族系統は不詳ですがイランから移住したカッシート人などにより,エジプトを含めてオリエント各地域の接触が促され,ひとつの世界としての古代オリエントが形成される道が開けました。一方,エーゲ海域にもオリエント世界の影響を受けて,トロイアやクレタなどの文明が発生しました。


前14〜前12世紀のオリエント

前14〜前15世紀のオリエント

 エジプト新王国第18王朝のアメンホテプ4世は,ミタンニやヒッタイトなどの強国と文化交流を活発に展開し,「アマルナ外交時代」とよばれます。このアマルナ時代には,エジプト,ヒッタイト,ミタンニ,カッシートや,新興のアッシリアが5大強国としてオリエント世界で活発な外交関係を展開しました。
 エジプト新王国第19王朝のラメセス2世はカデシュの戦いなどでヒッタイトと争い,一方ミタンニはヒッタイトに領土を奪われ,さらに属国であったアッシリアの離反と強大化などにより前13世紀半ばに滅亡したと考えられます。
 こうした交流や対立抗争の推移のなかで,前1200年前後にギリシア・エーゲ海方面から「海の民」が進出してきました。オリエントの大勢力のエジプトはかろうじて撃退しましたが衰え,ヒッタイトは滅ぼされました。こうして,オリエント世界は新たな時代を迎えることになりました。


海の民の侵入(紀元前1200年頃)

海の民の侵入

 海の民は紀元前13世紀末から前12世紀の初めにかけて,アナトリアおよびシリア,パレスチナなど地中海東岸一帯に来襲して,前代の体制を一挙に崩壊させた混成移民集団です。原住地は判然としませんが,バルカン南部,エーゲ海域を経由して侵入しました。パレスチナに植民したペリシテ人はその一派です。アナトリアのヒッタイト王国は滅亡し,シリアの諸都市も多くが破壊され,かろうじてこれを撃退したラムセス3世(在位前1198〜前1166)のエジプト新王国も弱体化しました。なお,製鉄技術を独占していたヒッタイト王国の滅亡により,製鉄技術は諸国に広がり,オリエントは鉄器時代に入りました。


アッシリアの統一

アッシリアの統一

 北メソポタミアのセム系アッシリア人は,前8世紀後半にバビロニア地方など周辺部を征服し,前722年にはイスラエル王国を滅ぼし,前671年,エジプトを征服してオリエント主要部を初めて統一しました。
 サルゴン2世はアッシリアの最盛期サルゴン朝の創始者で,イスラエル王国を滅ぼしました。アッシュル=バニパル王はエジプトなどを征服して,アッシリアの最大領土を築きましたが,一方で国力の疲弊がすすみました。


アケメネス朝ペルシアのオリエント統一

アケメネス朝ペルシアのオリエント統一

 北メソポタミアにおこったアッシリアは前7世紀前半に全オリエントを征服しました。しかし重税と圧政によって服属民の反抗をまねき,メディアと新バビロニアの連合軍により前612年首都ニネヴェを陥れられました。アッシリアはエジプトの支援を得て抵抗をつづけましたが,前605年ハマの近郊での戦いに敗れ,新バビロニアに完全に併合されました。こうしてオリエント世界はエジプト(都サイス)・リディア(都サルデス)・新バビロニア(都バビロン)・メディア(都エクバタナ)の4王国が分立することになりました。
 ペルシスの王キュロス2世(位前559〜前530)は前550年パサルガタエ近郊でメディア軍を破り,その広大な領土を支配下におきました。メディア敗戦の知らせに,リディアは東方遠征を決意しますが,前548年ハットゥシャシュの戦いでリディア軍とペルシア軍は膠着状態におちいりました。リディア軍は首都サルデスに撤退しましたが,その地で包囲され敗れました(前547年)。
 さらにペルシアは前539年にバビロンを陥れ新バビロニアを支配下におきました。キュロス2世の後継者カンビュセス2世(位前529〜前522)は前525年エジプトを征服しました。こうしてアケメネス朝ペルシアのオリエント統一がなしとげられました。