世界史の歴史地図へのお誘い
特集 世界史の紛らわしい事項一覧
−大学入試直前まで使える−
大学入試では1点の差が合否につながります。「あそこであんな間違いをしなければ・・・・・」などと思っても後の祭り。緊張しているときは、知っているはずのことが思い出せなくなったり、思いがけない間違い・勘違いをしやすいものです。ここでは、そういうことで貴重な1点を失うことのないように、間違いやすい・紛らわしい項目を列挙してみました。これまで学んだ知識を確実なものにするためにも、この特集をしっかりとマスターしてください。
●ア行
アカプルコ貿易
スペインが太平洋岸のアカプルコ(メキシコ)を起点とする航路で行った貿易。フィリピンのマニラで、中国の絹・陶磁器を銀と取引した。
ガレオン貿易
ガレオン船による貿易。スペインのアカプルコ貿易がおもなもの。
アートマン
インドのウパニシャッド哲学の概念で、人間存在の根本原理であり、「我」と訳す。ブラフマン「梵」(宇宙の根本原理)と一体であるとされた。
アーリマン
ゾロアスター教の悪の神でアフリマンともいい、暗黒に象徴される。善の神であるアフラ=マズダ(光明)と対立する。
アモン
古代エジプト・テーベの守護神でアメンともいう。新王国では、太陽神ラーと合体してアモン=ラーとして信仰された。
アトン
古代エジプトの神でアテンともいう。太陽で表される神で、アメンホテプ4世(イクナートン)が、宗教改革の際、信仰を強要した。
アーヘンの和約(1668年)
ルイ14世が起こした南ネーデルラント継承戦争の和約。フランスはフランドルの一部を得たにすぎない。
アーヘンの和約(1748年)
オーストリア継承戦争の和約。プロイセンはシュレジエン地方を獲得し、マリア=テレジアのハプスブルク家の継承権が認められた。
アンコール=トム
カンボジアのアンコール朝の王都遺跡、初め9世紀末に造営されたが、現在残っているのは13世紀初頭のものである。
アンコール=ワット
アンコール=トムの北方1.5kmにある12世紀前半の寺院の遺跡。当初はヒンドゥー寺院であったが、14世紀ころから仏教寺院に変わった。
イタリア遠征
1796年、ナポレオンはアルプスを超えてイタリアに進出し、オーストリアを破ってカンポ=フォルミオの和約を結び、第1回対仏大同盟を崩壊させた。
イタリア政策
歴代の神聖ローマ皇帝はイタリア遠征を繰り返した。そのため帝国統治がなおざりになり、諸侯が強大化し、帝国の分裂・衰退へとつながった。
イッソスの戦い
アレクサンドロス大王は東方遠征に出発し、前333年のこの戦いでペルシアのダレイオス3世を破ってシリア・エジプトを占領した。
イプソスの戦い
アレクサンドロス大王の死後起こったディアドコイ(後継者)戦争中、前301年のこの戦いでマケドニアが敗れ、アレクサンドロス帝国の分裂が決定的になった。
ヴァレンヌ事件
1791年、ルイ16世一家はオーストリアへの逃亡を試み、ヴァレンヌで捕らわれた。以後、国王は信用を失い、急速に共和派が進出した。
ヴァルミーの戦い
1792年、フランスの民衆の軍隊がプロイセンの正規軍を破った。従軍していたゲーテが「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と記したといわれる。
ヴァンデーの農民反乱
1793年3月、フランス西部のヴァンデー県で起こった農民反乱。カトリック教会・王党派の勢力が強く、国民公会の徴兵制への反発から反乱が発生した。
ウィーン会議
1814〜15年、ヨーロッパ諸国の代表がウィーンに集まり、ナポレオン戦争後の国際問題について協議し、ウィーン議定書が調印された。
ウィーン会談
1961年、ソ連のフルシチョフ首相とアメリカのケネディ大統領が会談。内容は不明だが、2大国による世界政治の指導権の把握に努めたものとみられる。
ウィーン条約(1735年)
1733年からポーランドの王位をめぐって、フランスとオーストリア・ロシアを中心に展開したポーランド継承戦争の和約。
ウィーン条約(1809年)
ナポレオンのイベリア半島戦争中、オーストリアはフランスに宣戦したがワグラムの戦いに敗れ、この条約を結んだ。
ウィーン包囲(第1次)
1529年。オスマン帝国が神聖ローマ帝国の都ウィーンを包囲した事件。オスマン軍は1カ月あまりで包囲を解いて撤退したためウィーンは陥落を免れたが、以後長らく「トルコの脅威」を西欧諸国に強く印象づける事件となった。
ウィーン包囲(第2次)
1683年。オスマン軍によるウィーン包囲事件。オスマン軍は15万の大軍で包囲したが、ポーランド軍などの援軍によって撃退された。以後、ヨーロッパでのオスマン帝国の退潮が始まった。
ウイグル
トルコ系騎馬遊牧民。初め突厥や唐に服属していたが、744年東突厥を滅ぼして、可汗を称して王国(744〜840)を建設した。8世紀末ころから内紛が激しくなり、840年キルギスの侵入を受けて滅亡した。
ウズベク
中央アジアのシル川流域一帯(西トルキスタン)に住んだトルコ系民族。1505年シャイバニ朝を建て、翌年にはティムール朝を滅ぼした。16世紀末、サファヴィー朝やコサック族の攻撃を受け、衰退した。
ヴェルサイユ条約(1783年)
アメリカ独立戦争に参戦したフランスとスペインが、イギリスと結んだ条約。スペインがミノルカ島とフロリダを獲得した。
ヴェルサイユ条約(1919年)
第一次世界大戦の結果、パリ講和会議で連合国とドイツの間で結ばれた条約。15編440条からなるが、第1編は国際連盟規約26カ条。
ヴォルムス協約
1122年、聖職叙任権について、教皇カリクストゥス2世と皇帝ハインリヒ5世の間で結ばれた協約。叙任権そのものは教皇が持つが、ドイツ領内では皇帝が教会・修道院の領地の承認権を持つという内容の妥協案で、これにより叙任権闘争は一応終結した。
ヴォルムス帝国議会
1495年にも開催されたことのあるヴォルムスで、1521年、皇帝カール5世がドイツ諸侯を招集した会議。カール5世はルターを呼び出し、所説の撤回を強要した。ルターが拒否したため、ルター派は禁止された。
『女の一生』
1883年刊。フランスの自然主義作家モーパッサンの長編小説。一女性の一生を、救いのない形で描いた。
『女の平和』
アテネ最大の喜劇作家アリストファネスの代表作。女性の性的ストライキにより平和を実現させる空想劇。ペロポネソス戦争に対する反戦劇で、当時の大幅な言論の自由の存在を知ることができる。
王政復古(英)
ピューリタン革命による共和政がクロムウェルの死後、崩壊し、1660年議会の尊重を条件に王政の復活を認め、チャールズ2世が即位したことをいう。
王政復古(仏)
1814年、ナポレオン1世の帝政崩壊後、フランスにルイ18世が即位しブルボン朝の王政が復活した。
王の目・王の耳
アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が定めた制度で、各州の知事(サトラップ)の行動を監視し中央に報告した監察官のこと。
王の道
ダレイオス1世の建設した公道で都のスサから小アジアのサルデスまで達していた。駅伝制を定め、軍事・政治・経済に役立った。
『王の書』
ペルシアの民族叙事詩で「シャー=ナーメ」という。建国から7世紀までの伝説や歴史をうたったもので、11世紀にフィルドゥシーが完成した。
●カ行
開放耕地制
中世ヨーロッパの荘園では、農民保有地や領主直営地を生け垣や塀などで仕切らなかったのでこうよぶ。
解放区
辺区ともいう。抗日戦争中の中国共産党の支配地域で、抗日根拠地ともいわれたが、日本軍の支配から解放された地域という意味。華北の西部農村地域を中心に拡大した。日本敗戦時には19解放区、人口約9500万の規模であった。
囲い込み(第一次)
15世紀末〜17世紀半ば、毛織物市場が拡大したので、牧羊のため、領主や地主が開放農地を小作人からとりあげて、生け垣や塀で囲い込んだこと。多くの農民が土地を失い、その多くが浮浪者となったりして社会的不安が高まったため、政府は禁止の態度をとった。
囲い込み(第二次)
18世紀〜19世紀初め、イギリスで行われた耕作地や森林の周囲を柵・生け垣などで囲い込んだ。食糧増産を目的に、議会・政府が奨励する合法運動として大規模に行われ、農業面での資本主義的大農場経営を成立させた。土地を失った農民が賃金労働者になることによって、産業革命が促進された。
ガーナ王国
8世紀以前から1076年まで、セネガル川・ニジェール川上流に栄えた黒人王国。イスラーム化し、塩金交易で栄えたが、1077年、モロッコのムラービト朝の攻撃をうけて崩壊した。
ガーナ共和国
1957年、イギリス領トーゴーランドと黄金海岸がイギリス連邦の一員として独立。初代エンクルマ大統領はパン=アフリカニズム運動の指導者だった。
韓
前403〜前230年の「戦国の七雄」の一つ。山西南東部から河南中部を支配していたが、七雄中、最も早く秦により滅亡。
漢
劉邦(高祖)の建てた前漢(前202〜後8)と劉秀の建てた後漢(25〜220)に分かれる。ほかに魏晋南北朝と五代十国時代に6カ国の漢がある。
関税同盟
1818年以降プロイセンが中心となって結成された関税同盟。1828年には北・南・中部ドイツの3関税同盟が結成され、その後これら3関税同盟の統合が進み、1934年にドイツ関税同盟が発足した。以後ドイツの経済的統一が進み、その後の政治的統一の前提ともなった。
関税ブロック
1932年、カナダのオタワで開かれたイギリス連邦経済会議(オタワ連邦会議)で、オタワ協定を結び、連邦内諸国間の特恵関税制度を決め、ポンド圏諸国の結束を固めた。
関東軍
関東州と南満州鉄道の警備のために駐屯した日本の陸軍部隊であるが、張作霖爆殺や満州事変など、日本政府の意向を無視して、独断で中国での戦争を拡大していった。1919年に設置。
広東軍政府
1917、21、23年の3度、孫文を大元帥として広州に設立された政府。孫文と西南諸軍閥の連合政権であったため、内紛によって3度断絶した。1925年、孫文の死後、広東国民政府に改組された。
魏(戦国)
前403〜前225年の「戦国の七雄」の一つ。春秋の五覇の一つである晋が分裂したとき、韓・趙とともに成立した。前4世紀初め強盛となったが、秦に滅ぼされた。
魏(三国)
後漢末の黄巾の乱を討った曹操は華北を制覇し、その子の曹丕が220年に帝位について成立した。265年、部将の司馬炎に位を奪われて滅びた。
騎士(ローマ)
元来、馬に乗って軍務に服するものであったが、第2回ポエニ戦争以後徴税請負人・金融業者などになり、さらに元老院貴族につぐ身分になった。
騎士(中世)
中世封建社会のもとで、国王や大諸侯と主従関係を結んで、軍事的奉仕をする騎士階級をいう。一般に小領主が多い。
郷紳(英)
中世末期以後のイギリスで小領主が地主化したものであり、ジェントリという。ヨーマンより上位にあり、農村の実力者層である。
郷紳(中国)
科挙の合格者で郷里に住んでいる者の明・清代の呼称。退職官吏が多く、地主でもあり、地方政治に大きな発言力をもっていた。
教会大分裂(大シスマ)
1378〜1417。フランス王支配下のアヴィニョンの教皇に対し、神聖ローマ皇帝・イギリス王がローマに教皇を擁立してたがいに正統を主張し、教会の中心が分裂したこと。のちコンスタンツ公会議で再統一された。
教会の東西分裂
726年以降、聖像礼拝問題を主題に対立し、1054年ローマ=カトリック教会とギリシア正教会はたがいに破門しあい、完全に分裂した。
『キリスト者の自由』
1520年に書かれたルターの3大著作の一つ。「信仰によってのみ義とされる」という信仰義認説を主張した。
『キリスト教綱要』
1536年初版のカルヴァンの代表的著作で、フランソワ1世に捧げられた。福音主義を理論化したこの著作により、彼はジュネーヴにまねかれたといわれる。
禁書
中国では思想統制のため禁書令を出し、反政府思想を弾圧した。特に清代には厳重で、乾隆帝の時代が激しかった。
『禁書目録』
反カトリックと見なされた書物の禁読図書のリストで、教皇庁が発行した。1559年が最初で、以後改訂を重ねたが、1900年に大幅に緩和された。
結縄(キープ)
文字の代わりに、縄の結び方で意味や数量を表す方法。インカ帝国で人口や徴税に役立てられた。
結集
ブッダの教説に関する異説を検討して修正する会議で、アショーカ王の第3回、カニシカ王の第4回が有名。
『ゲルマニア』
ローマの歴史家タキトゥスが原始ゲルマン人の社会や風俗を記したもので、文字をもたなかった古ゲルマン社会の研究の貴重な史料である。
「ゲルニカ」
1937年、スペイン内乱中にドイツ空軍はスペイン北部バスク地方の小都市ゲルニカに無差別爆撃を加え、多くの犠牲者を出した。ピカソは戦争への憎悪をこめてこれを描いた。
憲法制定会議(米)
アメリカ独立戦争後の1787年、当時のアメリカ連合規約に基づく連合議会が、合衆国憲法制定のためフィラデルフィアに招集した会議。
憲法制定会議(仏)
1789年、三部会から分離成立した国民議会が、その使命はフランス最初の憲法制定にあるとして、この名称を採択した。
憲法制定会議(露)
1917年、10月革命で政権を握ったボルシェヴィキは、憲法制定議会の選挙を行ったが多数を制することができず、翌年1月解散して独裁を始めた。
権利の請願
1628年、議会がチャールズ1世に提出した請願書。王の恣意的政治に反対した。「マグナ=カルタ」「権利の章典」と並ぶ英憲法の3大法典である。
権利の章典
1689年、名誉革命の直後、先にウィリアム3世とメアリ2世の両人に即位の条件として提示した「権利の宣言」を法典として公布したもの。
黄巾の乱
184年。後漢末の農民反乱。太平道の教祖張角が指導し、悪政と天災に苦しむ貧窮農民が黄色の頭巾をつけて参加した大反乱で、華北一帯に波及した。後漢の滅亡は決定的となった。
紅巾の乱(白蓮教徒の乱)
1351〜66。元末の白蓮教などの宗教結社を中心とした農民反乱。紅色の頭巾を目印とした。
紅帽派
チベット仏教(ラマ教)の一派。紅教ともいい、赤い帽子を用いるためにこうよぶ。14世紀に黄帽派が成立したため、以前からの宗派を総称した呼称である。
黄帽派
黄教ともいい、従来のチベット仏教の堕落に対してツォンカパが厳正な戒律を主張した。その後、チベット仏教の主流派となった。
護民官
古代ローマで前494年に設けられたとされる官職。平民会の投票で選出され任期は1年で身体は神聖不可侵とされた。元老院やコンスルに対し拒否権を行使できた。
護国卿
ピューリタン革命において1653年以降クロムウェルが設けた職。政・軍の最高官職で、クロムウェルの独裁政治の手段となった。
交子・会子
宋代に用いられた世界最古の紙幣。唐代にも飛銭という手形があったが、宋では民間金融業者の手形を政府が引き継いで、紙幣として発行した。
交鈔・宝鈔
金・元・明で用いられた紙幣で、手形ではない。金・元では交鈔、明では宝鈔という。特に元はこれを乱発して混乱を招き、滅亡の原因となった。
国民議会(仏)
1789年、三部会の第三身分代表が、三部会より分離して結成した議会。フランスではこのほか、1871〜1875年、1940年、1944〜1945年にもこの名称の議会があった。
国民議会(独)
1848年、三月革命の影響でドイツ最初の議会がフランクフルトで開かれた。翌年、立憲民主制憲法を定めたが、プロイセン王に拒絶され失敗に終わった。
コミンテルン
国際共産党(Communist International)の略称。1919年、レーニンらがモスクワに創設し、各国の社会主義政党を指導した。1943年、解散。
コミンフォルム
共産党および労働者党情報局(Communist Information Bureau)の略。1947年、ヨーロッパ9カ国の共産党が設立。1956年、平和共存政策のため解散。
●サ行
最後の審判
キリスト教の審判には個人の裁きとこの世の終わりの裁きがある。後者が最後の審判で美術上の好題材である。ミケランジェロの作品が特に有名。
最後の晩餐
キリストが十字架にかかる前に、最後に使徒たちと共にした夕食。聖体説の起源である。美術の題材として作品が多く、ダ=ヴィンチの作品が特に有名。
サーマーン朝
874年、中央アジアに成立したイラン系王朝。ブハラやサマルカンドが中心であったが、999年、カラ=ハン朝によって滅ぼされた。
サファヴィー朝
1501年に成立した前近代のイランの代表的な王朝。現代イランの原型を領域や文化の面でつくり出し、政治的にも文化的にも、その後現代にいたるまでのイラン社会に大きな影響をあたえている。特にシーア派イスラーム教を国教とし、スンナ派のオスマン帝国と対立した。
三月革命(オーストリア)
1848年、フランスの二月革命の影響で、オーストリアではウィーン暴動でメッテルニヒが亡命しハンガリー・ベーメンでも民族独立運動が起こった。
三月革命(プロイセン)
プロイセンでも二月革命の影響でベルリンで革命が起こり、カンプハウゼン内閣が成立、自由主義的改革を約束したが、結局、実現しなかった。
三月革命(露)
1917年3月(ロシア暦2月)、ニコライ2世が退位してロシア帝国が崩壊、臨時政府が成立した。
産業革命(第1次)
18世紀後半からイギリスで始まった技術革新が引き起こした産業・経済・社会上の大変革をいう。資本主義が確立する一方、社会主義もうまれた。
産業革命(第2次)
19世紀後半になると、電気と石油の利用により重化学工業が発達し、社会的には金融独占資本主義が発生した。これを第2次産業革命という。
三国同盟(独・オーストリア・イタリア)
1882年、ドイツ・オーストリア・イタリア間に成立。フランスを孤立状態におこうとするビスマルク外交の勝利である。
三国協商
1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、1907年の英露協商にによってつくりあげられた3国の協力関係。1917年のロシア革命によって崩壊した。
サンフランシスコ会議
1945年4月〜6月、第二次世界大戦の連合国50カ国がサンフランシスコに集まり、国際連合憲章を採択した国際会議。
サンフランシスコ講和会議
1951年、48カ国と日本との間の講和条約を結んだ会議。ソ連・中国などは不参加だった。また同時に日米安全保障条約も結ばれた。
自作農創設
1793年、独裁体制下のジャコバン党が、封建的特権の無償廃止を決め、それにともなって没収した土地を小農民に無償配布した。
自作農創設法
ホームステッド法といい、1862年、南北戦争中に制定された。5年間西部に定住した者に160エーカーの土地を無償であたえ、自作農育成を図った。
『資治通鑑』
北宋の司馬光が編纂・著述した編年体の歴史書。大義名分論に貫かれ、豊富な史料に精緻な考証を加えた名著で、後世の学者の必読の書となった。
『資治通鑑綱目』
朱熹(朱子)の著。『資治通鑑』の内容を改めて大義名分論・正統論の立場から再構成し、評価を加えたもの。
社会民主党
1890年、ビスマルクの退陣で社会主義鎮圧法が廃止されたので、ドイツ社会主義労働者党が改名、再建された。1933年解散、1945年再建された。
社会民主労働党
1898年、プレハーノフやレーニンが創立したロシア最初のマルクス主義政党。1903年の第2回大会で、ボルシェヴィキとメンシェヴィキに分裂。
上海クーデタ
1927年、北伐の途中、蒋介石が上海で決行した反共クーデタ。北伐により共産党が発展するのを恐れた浙江財閥などの要望に応じたものとされる。
上海事変(第1次)
1931年の満州事変の後、中国では反日運動が高まり、翌年1月、上海で武力衝突が起こり、戦争状態になつた。国際連盟の斡旋で5月に停戦が実現。
上海事変(第2次)
1937年7月に始まった日中戦争は、当初は華北に限られたもので、北支事変といわれていたが、8月、上海でも戦闘が起こって全面的戦争に突入した。
十月革命
1917年、ボルシェヴィキの指導で武装蜂起を起こし、ケレンスキー臨時政府を倒し、レーニンを首班とする政府を組織した。新暦では11月革命。
十月事件
ヴェルサイユ行進ともいい、1789年10月、パリの婦人数千人がパンを要求してヴェルサイユ宮殿に押しかけ、ルイ16世一家をパリに連行した事件。
十月勅令
1905年、血の日曜日事件を機に起こった第1次ロシア革命は、ニコライ2世が憲法の制定と議会の開設を約束したこの勅令を発布して収拾された。
スエズ運河株買収
1875年、ディズレーリが、財政難に陥ったエジプトからスエズ運河会社の株式(全体の44.4%)を買収した。これにより、イギリスはインドへの道を確保した。
スエズ運河国有化
1956年7月、アスワン=ハイダム建設資金の提供をアメリカが拒絶したことに対抗し、ナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言した。
スコラ学
アウグスティヌスらが神学の基礎を築き、アンセルムスらがアリストテレスの哲学を摂取し、トマス=アクィナスによって大成された学問体系。
ストア派哲学
ヘレニズム時代のゼノンに始まり、ローマ時代にも主流を占めた哲学。世界市民思想を背景に、個人の幸福を禁欲による心の平静にあるとした。
スペイン継承戦争
1700年スペイン=ハプスブルク家が断絶し、フランスのルイ14世が孫のフェリペを王位につけたため、翌1701年から1713年まで続いた戦争。
スペイン反乱
イベリア半島戦争ともいい、1808年、ナポレオンが兄ジョゼフをスペイン王位につけたため、スペイン民衆は各地でゲリラ戦を展開した。
スペイン革命
1923年以来、軍事独裁を続けていたプリモ=デ=リベラが1930年に死に、社会主義者や共和派がブルボン朝のアルフォンソ13世を退位させ、共和国を実現した革命。
スペイン内戦
1936年、スペインに人民戦線内閣が成立すると、軍部や地主に支持されたフランコが反乱を起こした。ドイツ・イタリアは公然とフランコを支持した。
スワデーシ
ヒンディー語で国産のものを意味し、1906年、インド国民会議派のカルカッタ大会で国産品愛用をよびかけるスローガンとなった。
スワラージ
ヒンディー語で自治を意味し、スワデーシとともに自治を求めるスローガンとなった。1929年にはプールナ=スワラージ(完全独立)に発展。
靖康の変
1126年と1127年の2回、宋と同盟して遼を滅ぼした金が、宋の違約を責めて1126年に開封を占領し、1127年に徽宗・欽宗・皇后・皇族・貴族らを捕らえて北方に連れ去った事件。この結果、北宋は滅亡した。
靖難の役
1399〜1402年、明の王室の内紛。建文帝による諸王抑圧策に対し、叔父の燕王が「君側の奸を除き、帝室の難を靖んず」と称して反乱をおこし、南京を攻略して帝位を奪った。
聖戦
異教徒に対するイスラーム教徒の戦いで、ジハードという。
聖遷
ヒジュラという。622年、ムハンマドがクライシュ族の大商人の迫害をさけ、メッカからメディナに逃れた事件。この年がイスラーム暦の紀元元年とされた。
●タ行
中国同盟会
1905年、孫文を中心として東京で結成された革命団体。日露戦争などの世界情勢に刺激されて、従来の興中会・光復会・華興会などの革命諸団体が結集した。
中華革命党
1914年7月、孫文が東京で結成した革命的秘密結社。第二革命(1913年)失敗後の革命勢力の再建をめざした。1919年に中国国民党に改編された。
中国国民党
ロシア革命の成功や1919年の五・四運動の影響を受けた孫文は、中華革命党を改組し、大衆政党とした。なお1912〜1913年にも国民党がある。
天津条約(1858年)
アロー戦争の結果結ばれた講和条約で、対米・英・仏・露の4条約をふくむ。英・仏とは戦争が再発したため、1860年の北京条約が加わった。
天津条約(1885年、対仏)
1884〜1885年の清仏戦争の結果結ばれた講和条約で、清はベトナムの宗主権を放棄し、フランスによる保護国化を承認した。また、清の南部数省でのフランスの特権を容認した。
天津条約(1885年、対日)
朝鮮の開化派が起こした甲申政変の処理に関して日清間で締結した条約。朝鮮からの両国軍の撤兵、将来の出兵は事前に照会することなどを内容とした。
屯田制
中国では秦・漢時代から辺境の防備と耕地の拡大をねらった屯田兵制があった。三国の魏では曹操が実施し、唐・宋・明でも採用されている。
屯田兵制
ビザンツ帝国では軍管区(テマ)制を実施し、軍管区内に兵役義務を持った農民を定住させた。首都を除く広い地域で実施された。
独立派
ピューリタン革命の中心となったクロムウェルの属した派。イギリス議会のなかで、おもに地主や富裕な市民の立場を代表したグループ。
独立党(開化派)
1882年の壬午軍乱以後、事大党に対抗し、日本と結んで清からの独立と近代化をはかろうとしたグループ。1984年に甲申政変を起こしたが失敗した。
東方遠征
前334年〜前324年、アレクサンドロス大王の行った大事業。前330年アケメネス朝を滅ぼしたのち、軍隊を再編成し、中央アジアからインダス川西岸まで征服してスサに帰還した。
東方植民
12〜14世紀にドイツ諸侯・騎士・修道院などが行った、エルベ川以東のスラヴ人居住地などへの植民。とくに、ドイツ騎士団は先住民のキリスト教化を理由にバルト海東南沿岸地域で軍事的性格の濃い植民を推し進め、のちのプロイセンのもとになる大規模な領土を獲得した。
東方貿易
主として中世後期〜近代初期、ヨーロッパの地中海経由で東方の物産(香辛料など)を輸入し銀や毛織物を輸出した。レヴァント貿易ともいう。
東方問題
19世紀にオスマン帝国の領土と民族問題をめぐって生じた国際的諸問題を、西欧列強の側から表現した言葉。オスマン帝国の衰退に乗じて、支配下の諸民族の独立運動が激しくなり、それに西欧列強が干渉して起こった。
東方外交
西ドイツ・ブラント政権(1969〜74)が進めた対東ドイツ・ポーランド・ソ連との和解を促進した政策のこと。
ドイツ連邦
1815年、ウィーン会議により成立した。35の君主国と4自由市で構成される。プロイセン=オーストリア戦争の結果、1866年解体した。
ドイツ連邦共和国
1949年5月に成立。9月発足。通称西ドイツ。
●ナ行
南北戦争
1861年、リンカーンの大統領当選を機に南部奴隷州11州は合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成した。これを認めない北部との間に起きた戦争。
南北朝
北朝は北魏・西魏・東魏・北周・北斉の5王朝。南朝は宋・斉・梁・陳の4王朝。五胡十六国や、東晋はふくまれない。
南北問題
1950年代には米ソ間の東西問題が中心課題であったが、60年代以降は北の先進諸国と南の開発途上国の経済格差が問題となり、その協力関係が南北問題として課題になった。
『人間喜劇』
バルザックは「人間喜劇」という構想で、1842〜1848年に96篇の短篇を書き、ブルジョワ社会を表現しました。近代リアリズム(写実主義)小説の代表作である。
『人間ぎらい』
1766年に発表されたフランスの古典喜劇作家、モリエールの喜劇。彼の作品は人を笑わせるだけでなく、風俗を諷刺し、人間の偽善をあばく鋭さを持っていた。
ニコポリスの戦い
1396年、オスマン帝国のバヤジット1世が、ハンガリー王ジギスムントを中心とするバルカン諸国・フランス・ドイツ・イギリスの連合十字軍を撃破した戦い。これにより、オスマン帝国はバルカンの大半を制圧した。
ニハーヴァンドの戦い
642年、第2代カリフのオマールのアラブ軍がササン朝ペルシアの軍をザクロス山中で撃破した戦い。ササン朝は事実上崩壊し、651年に滅亡した。
日韓協約
日韓併合までに1904・05・07年の3回、日本と韓国の間で結んだ協約。最初に内政・外交上の協力を決め、次に外交権を奪い、統監府を置いた。
日韓条約
1965年成立。基本条約と日本からの経済援助協定をふくむ。朝鮮が分裂状態にあるため、議論の余地があった。
農奴解放令(オーストリア)
1781年ヨーゼフ2世が発布。農民の人格的な自由が認められ、移動と結婚の自由があたえられた。しかし、金銭を支払わなければ賦役義務からの解放が認められず、ヨーゼフ2世の死によって中断された。
農奴解放令(露)
1861年、アレクサンドル2世が発布した勅令。農民の人格的な自由は認められたが、土地の分与は有償で多額の「買い戻し金」が課せられた。自営農民の出現のきっかけとなり、ロシア資本主義進展の出発点となった。
●ハ行
藩王
もと明の将軍で清の統一に協力し、各地の王に封じられた者をいう。呉三桂(雲南)・尚可喜(広東)・耿継茂(福建)を三藩といい、1673年、反乱を起こした。
藩王国
イギリス支配下のインドにあって行政・司法・財政権などを持ち、軍隊も持っていた。500余国あり、独立後、インド連邦に加わった。
パリ講和会議
1919年に開催された第一次世界大戦の講和会議。戦勝国32カ国が参加し、英・米・仏3カ国が主導権を握った。
パリ和平会談
1968年5月〜73年1月、ベトナム和平に向けての会談。1973年1月ベトナム(パリ)和平協定が成立した。
パリ条約(1763年)
七年戦争の講和条約でイギリスとフランス・スペイン間で締結された。イギリスはフランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナを、スペインからフロリダを獲得、インドでも優位を確立。
パリ条約(1783年)
アメリカ独立戦争の結果結ばれた条約。イギリスはアメリカの独立を認め、ミシシッピ以東のルイジアナを割譲した。
パリ条約(第1次、1814年)
ナポレオン1世の退位後、ルイ18世と同盟諸国との間に結ばれた条約。フランスは1792年現在の領土を保ち、イギリスはセイロン島などを得た。
パリ条約(第2次、1815年)
ナポレオンの百日天下の後、復位したルイ18世と同盟諸国との間に結ばれた条約。フランスの国境を1790年現在のものに縮小し、賠償金7億フランを課した。
パリ条約(1856年)
クリミア戦争後、ロシアとイギリス・フランス・トルコなどの間に結ばれた条約。ダーダネルス・ボスフォラス両海峡の閉鎖、黒海の中立化などを決めた。
パリ条約(1898年)
アメリカ=スペイン(米西)戦争の結果結ばれた条約。スペインはキューバの独立を認め、合衆国に対してフィリピンを売却し、プエルトリコとグアムを割譲した。
パリ条約(1947年)
第二次世界大戦の結果、連合国とイタリア・ルーマニア・ハンガリー・ブルガリア・フィンランドの間で結ばれた講和条約。
百日維新
戊戌の変法は1898年6月11日から9月21日まで約百日続き、日本の明治維新にならって立憲体制樹立をめざしたので、変法維新などともいった。
百日天下
エルバ島を脱出したナポレオンは、1815年3月20日、パリに入城したが、ワーテルローの戦いに敗れ、6月22日退位した。この間を百日天下という。
武周革命
690年、則天武后によって唐が断絶して周が成立したことをいう。高宗の皇后であった武后は、貴族に対する科挙官僚の不満を背景としていた。
武昌革命
1911年10月10日、黎元洪の率いる新軍が挙兵し、武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)を支配したこと。辛亥革命の発端となったこの日が双十節である。
平和五原則
1954年のネルー・周恩来会談でまとめられた、五つの外交上の原則。1.領土主権の尊重 2.相互不侵略 3.内政不干渉 4.平等互恵 5.平和共存の原則を、周恩来・ネルーらが確認した。
平和十原則
1955年、アジア=アフリカ会議(バンドン会議)で確認された平和に関する原則。平和五原則の発展したもので、国際連合憲章の尊重などをふくむ。
ポーランド暴動(1830〜31年)
フランスの七月革命の影響でワルシャワにも革命が起こり、一時、革命政府が樹立されたが、ロシア軍に鎮圧された。
ポーランドの反乱(1863年)
農奴解放令で有名なアレクサンドル2世に対し、ポーランド人が大反乱を起こした。反乱は鎮圧されたが、農奴制支配は廃止された。
ポーランド反ソ暴動(1956年)
スターリンの死後、ポズナニの労働者・学生が生活不安とスターリン派の抑圧に反対して反乱、政府はソ連軍の出動を断り、自主的に解決した。
ポーランド暴動(1970年)
1956年の反ソ暴動を収拾し、共産党第一書記であったゴムルカがその後保守化したため、ポズナニの労働者が立ち上がり、ゴムルカは失脚した。
●マ行
民会(ギリシア)
ペリクレス時代のアテネで実現した。全成年男子で構成する最高機関。直接民主制の典型とされるが、前4世紀には欠席が多く出席者に日当を支給。
民会(ローマ)
クリア会・兵員会・平民会(トリブス会)の3つを総称して民会という。平民会が最も重要で、前287年のホルテンシウス法により立法権を得た。
ミュンヘン一揆
1923年、ナチスは政権獲得をめざして反乱を起こしたが、失敗してヒトラーは投獄された。以後、ナチスは議会制のなかで政権をねらうことになる。
ミュンヘン会談
1938年、ヒトラーの「最後の領土要求」であるズデーテン問題について英・仏・独・伊の首脳が会談、対独宥和政策の頂点としてこれを承認。
メキシコ征服
1521年、スペイン人コルテスがアステカ王国を滅ぼしたことをいう。
メキシコ遠征
1861〜1867年、ナポレオン3世はオーストリア皇帝の弟マクシミリアンを皇帝に擁立したが、内外の非難とメキシコ軍の抵抗に敗れて撤退した。
●ラ行
領主裁判権
中世西欧社会で荘園領主が荘園法にしたがって行使した裁判権。裁判は定期的に開かれ、領主が荘園を支配するための重要な手段であった。
領事裁判権
相手国の法律制度が不備である場合、条約で設定する特権。外国人犯罪者の裁判権を犯罪者の国の領事が持つこと。不平等条約の主な内容となった。
ロンドン条約(1830〜31年)
ベルギーの独立に関して英・仏・露・オーストリア・プロイセンが結んだ条約。独立の承認、領土の決定、永世中立の保障などを内容とする。
ロンドン4国条約(1840年)
東方問題の経過のなかで結ばれた条約。英・露・オーストリア・プロイセンがエジプトとシリア南部をムンハマド=アリーの領土とすることを決め、トルコに押しつけた。
ロンドン秘密条約(1915年)
第一次世界大戦が始まり、三国同盟を離脱したイタリアに対し、イギリス・ロシアが領土条件によって協商側に引き入れた条約。
ロンドン会議(1829年)
ギリシアの独立戦争をめぐるロシア・イギリス・フランスの会議。3月と10月の2回開かれ、後者で独立が承認されました。
ロンドン会議(1921〜22年)
第一次世界大戦の戦勝国代表が、ドイツ賠償の問題について討議した結果、1320億金マルクの総額を決定した。
ロンドン軍縮会議(1930年)
イギリスのマクドナルド首相の提唱により開かれた海軍軍備制限に関する会議。米・英・日の補助艦保有総量を10:10:7と定めた。
ローザンヌ条約
1923年、トルコ・ムスタファ=ケマル政権と連合国のセーヴル条約を破棄した、新講和条約。トルコはイズミル・イスタンブル周辺・東トラキアなどを回復し、軍備制限や治外法権を撤廃させ、独立を守り通した。
ローザンヌ会議
1932年、賠償と戦債問題についての国際会議。世界恐慌で崩壊に瀕したドイツの賠償の支払い延期と30億金マルクへ減額を決定した。アメリカへの戦債も解消され、賠償・戦債問題は実際には終了した。
●その他
封じ込め政策
Containment Policy。1947年以降、唯一の原爆保有国としての優位を背景に、トルーマン大統領が世界全域でソ連の進出を妨げようとしたもの。
巻き返し政策
Roll−back Policy。1953年以降、アイゼンハウアー政権のダレス国務長官が、従来の封じ込め政策は受け身であるとして展開した対共産圏軍事対決政策。
柳条湖事件
1931年9月18日夜、奉天郊外の柳条湖において、関東軍は南満州鉄道線路を自ら爆破し、張学良軍のしわざとして軍事行動をおこし、満州事変を開始した。
盧溝橋事件
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋でおこった日本と中国の軍事衝突事件。これ以後、両国は全面戦争に突入した。
テルミドールのクーデタ
1794年7月27日、国民公会の反ロベスピエール派が決行したクーデタ。ロベスピエール派を逮捕、処刑した。ジャコバン派の独裁が打倒され、穏健共和派のブルジョワジーによる支配が復活した。
ブリュメール18日のクーデタ
1799年11月9日、エジプトから帰国したナポレオンが、不安定な総裁政府を打倒した軍事クーデタ。総裁政府に代わり、統領政府が樹立され、フランス革命は終結した。
フセイン(フサイン)・マクマホン協定
1915年10月アラブの指導者フセインとイギリス高等弁務官マクマホンとの往復書簡によってできた協定。オスマン帝国治下のアラブ人に独立国家を認める趣旨(独立に触れた1915年10月の書簡がマクマホン宣言)。
バルフォア宣言
1917年、ユダヤ人(とくに金融資本家)の協力を欲したイギリス外相バルフォアが、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設支持を表明したもの。
バビロン捕囚
前586〜前538年、新バビロニアのネブカドネザル2世がユダ王国を滅ぼし、その住民の多くをバビロンに強制移住させた事件。
教皇のバビロン捕囚
1309〜77年、教皇が7代69年間にわたりフランス王権の圧力で南仏アヴィニョンに移転させられたこと。
滅満興漢
太平天国以来の革命的運動のスローガン。満州民族の国家・清を倒して漢民族の支配を回復しようとする。倒満または排満ともいう。
扶清滅洋
義和団のスローガン。最初は反キリスト教運動であったが、排外運動に発展し、清朝を助けることになった。日本風にいえば佐幕攘夷になる。
『仏国記』
東晋の僧・法顕のインド旅行記。399〜413年のインド旅行は、往路き陸上を復路は海上を経由し、帰国後、この紀行を著した。
『大唐西域記』
唐の玄奘の旅行記。玄奘は629〜645年にわたって中央アジア経由でインドに往復し、帰国後、口述して弟子に筆記させた。『西遊記』の素材となる。
『南海寄帰内法伝』
正確には『大唐南海寄帰内法伝』という。唐の義浄は37歳のとき単身でインドに渡り、20年の勉学の後帰国、その帰途スマトラで本書を著した。
ニケーア公会議
325年、小アジアのニコメディア南部の地で、コンスタンティヌス1世によって開催された、キリスト教会初の公会議。神とイエスを等質で不可分とするアタナシウスの説が正統とされ、アリウス派は追放された。
エフェソス公会議
431年、ビザンツ皇帝テオドシウス2世が、小アジア西岸のエフェソスで開催した公会議。マリア非神母説を唱えたコンスタンティノープルの総大司教ネストリウスの説は異端とされた。
カルケドン公会議
451年、ビザンツ皇帝マルキアヌスが、コンスタンティノープルの対岸にあるカルケドンで開催した公会議。ローマ教皇レオ1世の要請で、イエスに神性のみを認める単性論が異端とされた。
クレルモン宗教会議(公会議)
1095年、フランス中部のクレルモンで開催された会議。教皇ウルバヌス2世が聖地奪回の大遠征(十字軍)を提唱し、会議で派遣が決定された。
コンスタンツ公会議
1414〜1418年に開催。教会の大分裂(シスマ)を収拾して教会を統一し、フスを異端として火刑に処し、ウィクリフの遺体も焼き、その説を異端とした。
トリエント公会議
1545〜1563年開催。本来、新旧両教の調停をめざしたが、新教側のボイコットで、宗教改革に対抗してカトリックの再建を図る対抗宗教改革を始めた。
総裁政府
Directoire、執政政府ともいう。1795年の憲法によって成立し、5人の総裁が権限を分けた。自由経済を進めたブルジョワ政府である。
統領政府
Consulat、これも執政政府ということがある。ナポレオンが3人中の第一統領で、実質的には彼の軍事独裁政府である。1799〜1804年に存続した。
性即理
朱熹の修養・道徳理論の中心命題で、人間の本性は宇宙の本体たる理につながるものであるから、人欲を去って天理をつくせと説いた。
心即理
南宋の陸九淵が朱熹に反対し、禅の影響も受けて宇宙の本体の理は個人の心にあるとしたもので、一元論である。陽明学の基本原理となった。
致良知
王陽明は人間の心には是非善悪を判断する本体すなわち良知があるとし、これをきわめつくすことをいう。
模範議会
1295年、イギリスのエドワード1世が招集した議会。高位聖職者・大貴族のほか、各州2人の騎士、各都市2人の市民で構成され後世の模範となる。
短期議会
1640年、チャールズ1世は11年ぶりに議会を招集、スコットランド戦費の調達を図った。議会はこれを拒否し、3週間で解散させられた。
長期議会
1640年11月〜1653年4月。1640年、チャールズ1世は再度議会を招集したが、この議会で王党派と議会派の対立が激化し、1642年から内乱(ピューリタン革命)が始まった。共和政の時代にクロムウェルによって解散させられるまで継続した。
残余議会
ピューリタン革命中の長期議会で、1648年、独立派が長老派を追放して以後をいう。1653年まで続いた。Rump Parliamentだから臀部議会ともいう。
『五経正義』
儒学の経典である五経(詩・書・易・春秋・礼記)に関する注釈の集大成。唐の初期、孔穎達らが編集した。
『永楽大典』
明の永楽帝の命により編纂された中国最大の類書で、2万2877巻より成る。類書は古今の図書を集め、百科事典的に事項別にまとめたもの。
『四書大全』
明の永楽帝の命により編纂された四書の注釈書36巻。朱子学の説による解釈で統一されていて、科挙の出題基準とされた。1415年に刊行された。四書とは『礼記』の『大学』と『中庸』の2編と、『論語』と『孟子』の総称。
『五経大全』
明の永楽帝の命により編纂された五経の注釈書154巻。朱子学の説による解釈で統一されていて、『四書大全』と対をなす。1415年に刊行された。
『性理大全』
明の永楽帝の命により、周敦頤・朱熹らの性理学説を集大成した70巻の書。1415年に刊行された。
商業革命
新航路・新大陸の発見で商業の構造が根本的かつ急激に変わったこと。北イタリア・南ドイツの都市に変わり、大西洋にのぞむ国々の都市が繁栄。
価格革命
16世紀なかころになるとメキシコ・ペルーの鉱山が開発され、スペイン人が大量の銀をヨーロッパにもたらしたため、物価が急騰したこと。
首長法
Act of Supremacyだから国王至上法とも訳す。1534年、ヘンリ8世の発布したものと、1559年、エリザベス1世が発布したものとがある。
統一法
Act of Uniformityといって、イギリス国教会の礼拝・祈祷を統一する法。1549・52・59・1662年と4回あるが、1559年のものが最も重要。
公安委員会
1793年4月6日に国民公会内に設置された委員会。7月にロベスピエールが支配権を握り、政治・戦争の最高指導機関として事実上の政府の役割を果たした。テルミドールのクーデタの後、1795年10月に廃止された。
保安委員会
1792年10月に設置された国民公会内の委員会。治安・警察を担当したが、公安委員会と対立し、のちにロベスピエール派打倒の中心となった。
非常委員会
チェカというが正確には全ロシア反革命怠業取締非常委員会。1917年、レーニンが設立した警察機関で、内戦終了後の1922年廃止された。その秘密警察的役割は、ゲーペーウー(GPU)に引き継がれた。
東西教会の分離
ローマ教会とコンスタンティノープル教会は、726年の聖像禁止令以降対立を深め、1054年、最終的に分離した。
教会大分裂
シスマという。「教皇のバビロン捕囚」(1309〜77)の後、ローマにも教皇が擁立され(1378)てから、1417年、再統一されるまで。
インドシナ戦争
1946〜1954年。日本の降伏直後に成立したホー=チ=ミンのベトナム民主共和国に対し、フランスが植民地支配の回復をねらったために起こった戦争。ジュネーヴ会議で休戦協定が成立した。
ベトナム戦争
1965〜1973年。1954年のジュネーヴ協定以後ベトナムに進出したアメリカが1965年から本格的に介入した戦争。1968年からパリ会談に入り、1973年にベトナム(パリ)和平協定に調印、撤兵。