世界史の歴史地図へのお誘い
特集 朝鮮の歴史
−日本の大陸への窓口−
朝鮮四郡 朝鮮の歴史 漢城(朝鮮の都) 朝鮮戦争
(この歴史地図・図版は、『世界史地図・図解集』にも収録されています)
朝鮮と日本
歴史的に朝鮮をみると、「中華帝国」(中国本土)と「夷狄」(モンゴル高原、中国東北地方)、「倭人世界」(日本)に囲まれていると考えた朝鮮は、外にうってでるのではなく内向きに守りをかためる歴史を展開してきました。
また日本にとって、朝鮮半島は大陸の諸文化・文明が日本列島に伝えられる窓口になってきたのみならず、ほかの地域に進出を望まない朝鮮諸王朝の姿勢が日本の自立的発展をうながしました。
朝鮮四郡
朝鮮北部に紀元前3世紀ころ中国系の箕氏朝鮮が立ち、前194年にそれが同じ中国系の衛氏朝鮮にかわりました。さらに、前108年に前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡などの4郡をおいて朝鮮半島北部を直接支配しました(朝鮮四郡)。上図をそれを示しています。
楽浪郡(前108〜後313)は平壌(現在のピョンヤン、朝鮮民主主義人民共和国の首都)付近に設置され、4郡の中心的地位にありました。前漢時代には漢の政治・文化の東方への伝播の拠点として栄えました。楽浪郡は400年間存続して、後313年に滅びました。その間中国は前漢・後漢・三国・(西)晋と4王朝が経過していたので、東北アジアの歴史からすれば、400年間、東北アジアの諸地域・諸族の開化への方向を指示したものといえます。
朝鮮の歴史
4世紀になり、中国東北地方の狩猟・牧畜民が大挙して南下してきました。高句麗(前37〜後668)が楽浪郡を313年攻略し、本拠を平壌(現在のピョンヤン)のあたりに移しました。その時期に、朝鮮半島南部では韓族(朝鮮族)の国家である百済と新羅がたっていました。そして、朝鮮半島南端部は小国が分立する形をとっており、その地域は加羅(伽耶)とよばれました(朝鮮の三国時代)。
369年に日本は新羅を破り加羅(伽耶)を勢力圏として、百済と結びしばしば高句麗と争いました。
6世紀に入ると新羅の勢力が急伸し562年に加羅(伽耶)を滅ぼし、唐と同盟を結び660年には百済を、668年には高句麗を滅ぼしました。さらに新羅は唐軍と戦い、676年には朝鮮半島から唐の勢力を一掃しました。こうして新羅によって朝鮮半島は統一されました。
935年新羅にかわって高麗(918〜1392)が朝鮮半島を統一しました。そして、高麗が倭寇に苦しめられて滅びると、李成桂が朝鮮(李朝)をたてました。1392年のことです。16世紀末には豊臣秀吉が領土の拡大をめざして朝鮮侵略(朝鮮では壬辰・丁酉倭乱という)をおこないました。また1637年には中国清朝の侵略をうけてこれに服属し、朝貢関係に入りました。
地図でみると新羅、高麗、朝鮮(李朝)と王朝がかわるたびに、朝鮮の支配領域が北方に拡大していることがわかります。新羅が朝鮮半島を統一したときには、新羅の領域はピョンヤンの北方まででした。そして高麗の時代になると黄海側では鴨緑江までが高麗領になります。しかしそのころの日本海側のかなりの地域が高麗の支配外でした。朝鮮(李朝)の時代になってようやく鴨緑江が朝鮮の北方の境界になりました。
時代はくだって、日本の明治政府は1876年に武力を用いて強引に日朝修好条規(江華島条約)を結ばせて、朝鮮(李朝)を開国させました。その後、日本の植民地政策のなかで、1910韓国併合がなされました。三十数年にわたる日本支配の後に朝鮮の人びとは独立を回復しましたが、朝鮮半島はアメリカ合衆国が支持する大韓民国(南朝鮮)と、旧ソ連の影響下にある朝鮮民主主義人民共和国とに分断されてしまいました。
漢城(朝鮮の都)
朝鮮半島における統一国家は,統一新羅(676〜935 都は慶州<金城>),高麗(918<半島統一936>〜1392),朝鮮(李朝 1392〜1910)と推移します。漢城(現在のソウル)は朝鮮建国2年後の1394年に王都となりました。漢城の古称である漢陽は新羅時代から使われはじめ,朝鮮時代にも広く別称として使われました。
都城の建設にあたっては風水思想が重視され,周囲の山の稜線上に18kmあまりの城壁が築かれました。城内は,東大門と西大門を結ぶ大路の北側に王宮・官庁が配され,支配層の邸宅が建ち並びました。当初,この大路沿いに商店街が設置され,都城の南側を流れる漢江の水運により,全国からの様々な物資が運び込まれました。18世紀には,鐘楼・東大門・南大門周辺の「三大市」が人々でにぎわい,人口も最大で20万人を数えました。
1910年に日本は植民地として朝鮮を支配すると,漢城を京城と改めここに朝鮮総督府を置きました。1945年の独立回復後,ソウルを正式名称に採用しました。なお,ソウルとは朝鮮語で「みやこ」を意味します。
朝鮮戦争
第二次世界大戦後ヨーロッパから始まった冷戦は東アジアにも拡大しました。1950年に始まった朝鮮戦争(1950〜53)は東西対立の代理戦争の様相をていし、東西両陣営あわせて20カ国が参戦する大規模な国際紛争になりました。戦争が勃発する直前の情勢では、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍が装備・兵力とも韓国(南朝鮮)軍をうわまわり、朝鮮民主主義人民共和国に有利と考えられていました。事実アメリカの対中ソ防衛ラインには朝鮮半島はふくまれていませんでした。しかし、開戦後、韓国軍を支援するために16カ国で構成される国連軍が組織されることにより、事態はかわりました。
朝鮮戦争における、アメリカを中心とする国連軍の武力による朝鮮半島の統一は中国の介入をまねきました。その結果朝鮮戦争を契機に、アメリカは台湾の蒋介石政府への軍事援助を開始するとともに、日本に対する講和の動きを強めました。
日本はサンフランシスコ講和会議で西側諸国とのみの講和条約を結び、独立を回復します。しかし同時に、アメリカと日米安全保障条約を締結し、西側陣営にくみすることになりました。一方、朝鮮半島は38度線をはさむ停戦ラインで民族の分断が固定化されました。