最終更新日2026年10月20日
世界史の旅
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地中海東岸の諸民族
地中海東岸のシリア・パレスチナ地方は、エジプトとメソポタミアを結ぶ通路として、また地中海への出入り口として、海陸交通に便利であったため、前1500年頃から、のちにヘブライ人に従属する先住民カナーン人が活躍した。
前13世紀頃ギリシア・エーゲ海方面から「海の民」と呼ばれる人々が進出し、この地方を支配していたエジプトやヒッタイトの勢力が後退した。それに乗じて、アラム人・フェニキア人・ヘブライ人が活動を開始した。
シリアに多くの都市国家を建設したアラム人は、前1200年頃からダマスクスを中心に内陸都市を結ぶ中継貿易に活躍した。そのため、アラム文字はオリエント世界で使用されている多くの文字の源流となった。そこから派生した文字としては、ヘブライ文字・シリア文字・アラビア文字、さらにソグド文字やウイグル文字、モンゴル文字・満州文字などがあげられる。
カナーン人の一派から発展したと考えられるフェニキア人はシドン・ティルスなどの都市国家をつくり、クレタ・ミケーネ文明が衰えた後、前1200年以降地中海貿易を独占した。またフェニキア人はアルファベットの起源をつくった。
遊牧民であったヘブライ人は、前1500年頃パレスチナに定住し、その一部はエジプトに移住した。前1000年頃ヘブライ王国を建設したが、第3代ソロモン王の死後、王国は北のイスラエルと南のユダに分裂した。ヘブライ人はユダヤ教を確立し、ユダヤ教の教典『旧約聖書』は、『新約聖書』とならんで、キリスト教の教典となった。なお、ヘブライ人は他民族による呼び名で、彼ら自身はイスラエル人と称した。またバビロン捕囚後は、ユダヤ人と呼ばれることが多い。
新バビロニアとバビロン
前12世紀以降に強大な軍事国家となり、前7世紀にはオリエントの主要部分を統一した最初の世界帝国アッシリアは、前612年、新バビロニア(カルディア)とメディアに攻められて滅びた。それ以降、アケメネス朝ペルシアが前525年にオリエントを再統一するまで、新バビロニア・メディア・リディア・エジプトが並立する時代が続く。
4王国が並立する時代、メソポタミアからシリア・パレスチナへかけての「肥沃な三日月地帯」を支配した新バビロニアが最も優勢だった。ネプカドネザル2世(位前604〜前562)の時代が最盛期である。ネプカドネザル2世は前586年にユダ王国を滅ぼし、住民の多くはバビロンに強制移住させられた。このことは「バビロンの捕囚」(前586〜前538)として後世に記憶されることになる。
ところで、バビロンはユーフラテス川中流域の大都市である。バビロン第1王朝・新バビロニアの都として繁栄した。バビロンはウル第3王朝時代(前21世紀)に登場したが、世界の中心としての地位を得たのは、バビロン第1王朝のメソポタミアを再統一したハンムラビ王(前1792頃〜前1750頃)の時代で、バビロンの都市神マルドゥク神が神々の最高神とされたときからである。以後、王朝が交替しても、バビロンが世界の中心という位置づけに変更はなかった。
新バビロニア(前625〜前539)の第2代ネプカドネザル2世は王宮や城壁、さらにジッグラットがそびえる主神マルドゥク神殿建設など、壮麗な都市バビロンの再建を果たした。ジッグラットは『旧約聖書』の「バベルの塔」のモデルになった。
ギリシアの歴史家で「歴史の父」とよばれるヘロドトス(前484頃〜前425頃)は、バビロン市内はほかのどんな都市よりも整っており、3階や4階の家屋が並んでいて、直線の道路がそれを区切っていると述べている。
