有史以来、5000年の人類の歩みを説明し、また理解することは大変なことだとおもいます。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が読みまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
教科書を読んでいると、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。
●天皇直属の機関として、参謀本部が独立
1878(明治11)年12月5日、太政官は、軍令事項を軍政事項から区別し、陸軍省から独立させるため参謀本部条例を公布した。
条例によると、軍令とは「軍中の機務、戦略上の動静、進軍・駐軍・転軍の令、行軍路程の規、運輸の方法、軍隊の発差等」の作戦・用兵を意味し、軍令事項は参謀本部長の管掌するところとなった。さらに従来陸軍省の内局であった参謀局が廃止され、東京三宅坂に新たに設置された参謀本部が近衛・各鎮台の参謀部を統括するように改編された。
参謀本部が天皇に直属する軍令機関として独立したこと(統帥権の独立)は、国の政策を決定するにさいに軍部の政治的比重が一段と増大したことを意味した。これがのちに政府と軍部の矛盾・対立を表面化させる遠因となった。
●近衛兵が決起する(竹橋騒動)
1878(明治11)年8月23日、夜11時頃、麹町区竹橋にある近衛砲兵第1大隊の兵士約260人が、反乱をおこした。しかし、計画は事前に政府に探知され、ただちに鎮圧された(竹橋騒動)。
反乱の原因は、西南戦争の恩賞が下士・兵卒に及ばず、逆に財政困難を理由に減給されたこと、徴兵制実施にともなう生活不安などにあった。さらにその根底には、西南戦争を境に、それまで内乱鎮圧をおもな目的としていた軍隊を、外征用に編制替えすることをめざした、軍隊制度に対する不満があった。
政府は、反乱軍のなかに自由民権運動に影響された兵士が参加していたことに大きな衝撃を受け、軍隊内における上官への絶対服従の必要性を痛感した。同年、山県有朋陸軍卿が出した軍人訓誡(くんかい)や1882(明治15)年の軍人勅諭は、このような軍部の考えを象徴するものであった。
●大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)
1878(明治11)年5月14日、参議兼内務卿大久保利通(当時49歳)は、陸海軍将校への勲章授与式に出席するため、霞が関の自邸から赤坂仮御所に向かう途中、紀尾井坂下で石川県士族島田一郎(当時31歳)ほか5人に襲われて殺害された。
凶行に及んだ犯人らは、かねてから、大久保や木戸孝允(たかよし)ら内治優先派の政権独占に反感を抱いており、下野した西郷隆盛をはじめとする征韓派と連絡をとっていた。当初西南戦争に呼応して挙兵する計画であったが、これが実現をみないうちに西郷軍は敗れ、また木戸が病死したこともあって、大久保の独裁がゆるがぬものとなったための犯行だったという。
7月27日、大審院臨時裁判所は、島田ら6名に斬殺の刑を宣告、ただちに執行した。大久保の暗殺は、それまでの政府内における勢力関係を変化させ、伊藤博文・山県有朋(やまがたありとも)らによる長州閥の実権掌握を実現させることになった。
●モース、大森貝塚を発掘
1877(明治10)年9月16日、アメリカ人動物学者エドワード=モースが、助手や学生とともに、大森貝塚を訪れた。日本における考古学の出発点となった第1回調査である。 この年6月18日、モースは貝などの腕足類の研究のために日本に到着した。翌々日の20日、モースは文部省顧問のマレーを訪れるため、横浜から新橋行きの汽車に乗ったが、車窓から風景を見ていると、大森付近で白っぽい丘を発見、これは貝塚ではないかと直感した。
マレーから思いもかけず東京大学教授への就任を要請されたモースは、9月12日に初めて教壇に立ったが、最初の日曜日のこの日、大森を訪れ、貝塚であることを確認した。
モースの報告で大森貝塚は大きな反響をよび、考古学という新しい学問が始まった。2年後に退職するまで、モースは日本各地を調査し、日本の考古学・人類学の出発に多大な貢献をした。
●地租改正反対一揆、各地に広がる
1876(明治9)年12月19日、前日三重県飯野郡で始まった地租改正反対一揆が飯南(いいなん)・一志(いちし)や度会(わたらい)の諸郡にまで拡大し、各所で区戸長などの居宅や支庁・扱所・郵便局・学校などのほか、銀行なども襲撃された。
この伊勢暴動は、地租改正の基準米価(石代)算定問題をめぐって県当局と農民が激しく対立し、ついに爆発したものだった。この日沸騰した一揆は翌日以後さらに拡大し、一部は岐阜・愛知や堺(大阪)県に及ぶこととなった。
伊勢暴動の直前の11月末から12月上旬にかけて、茨城県の真壁・那珂の両郡でも地租改正反対一揆がおこっていた。三重・茨城両県の地租改正反対一揆により、士族反乱と農民一揆に挟撃されるような危機感をもった政府は、翌1877(明治10)年1月地租を3%から2.5%に軽減する布告を出した。この譲歩は当時「竹槍でどんと突き出す2分5厘」といわれた。