有史以来、5000年の人類の歩みを説明し、また理解することは大変なことだとおもいます。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が読みまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
教科書を読んでいると、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。
●長州藩、幕府軍(征長軍)に降伏する
禁門の変の直後、長州藩追討令が出された。長州藩では、禁門の変の敗北と4国連合艦隊の攻撃(下関戦争)で、尊王攘夷派の勢力が衰え、門閥上士層が権力を握った。彼らは、朝廷・幕府に全面的に謝罪し、藩の存続をはかろうとした。
一方、幕府は前尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)(当時41歳)を征長総督、薩摩藩士西郷隆盛(当時38歳)を参謀として長州藩領を包囲したが、戦意はかならずしも高くなかった。出兵した35藩は出陣にともなう出費が各藩の負担であったためである。
1864(文久4・元治1)年11月11日、35藩15万人が動員された長州征伐に対して、長州藩は3名の家老の切腹もって恭順の意を表し、全面的な敗北を認めた。幕府首脳部は、長州藩強硬処分の方針をもっていたが、征長軍は、禁門の変の責任者として家老・参謀の処断、長州藩主自筆の謝罪書の提出以上の政治的処分を求めることなく、12月27日に徳川慶勝が撤収を命令した。しかし、こののち、長州藩では降伏への不満が高まり、翌年1月2日、高杉晋作率いる諸隊が反乱を開始した。
●4国連合艦隊が下関を攻撃(下関戦争)
1864(文久4・元治1)年8月5日、前年、下関海峡で砲撃された列国の艦隊が、長州への報復として、下関を攻撃した。同日午後4時10分、英艦ユーリアラス号が戦闘開始の信号を発すると、英・米・仏・蘭の4国連合艦隊の各艦が砲撃を開始した。約1時間で下関海峡東部の田野浦(門司側)・串崎(長府側)の各砲台が破壊された。
下関攻撃はこの年1月からイギリス公使オールコックを中心に計画されていた。これを知った滞英中の伊藤博文(当時24歳)と井上馨(かおる)(当時30歳)は自藩(長州藩)説得のため急ぎ帰国したが、禁門の変直前で、長州で伊藤らの直言に耳をかす者はいなかった。7月18日連合艦隊の出撃が通告された。同じ日に帰国した横浜鎖港談判の使節は、下関事件の賠償、下関通航権の保障などを内容とするパリ約定を5月17日に調印していた。しかし、7月24日幕府がこの約定を破棄したため連合国は激怒し、8月4日軍艦17隻、兵士5,000人の4国連合艦隊が下関に向けて横浜を出港した。
連合艦隊が5日各砲台を破壊すると、翌6日2,000人余りの陸戦隊が上陸、8日までにすべての砲台を破壊、弾薬などを海中に放棄した。長州側は戦意を喪失し、8日高杉晋作を正使とする降伏使を送り、14日停戦協定を結んだ。以後、長州藩は開国へと路線を転換していった。
●禁門の変(蛤御門の変)が勃発
1864(文久4・元治1)年6月5日、京都祇園祭宵宮(よいみや)の夜10時頃、尊攘派志士約20名がひそかに集合していた三条通河原町の旅宿池田屋に、近藤勇(いさみ)(当時31歳)ら新撰組約30名が討ち入った。激闘1時間余で、尊攘派志士たちのほとんどが討ち死にまたは逮捕された。かろうじて、木戸孝允(たかよし、桂小五郎)(当時32歳)は池田屋から対馬藩邸に出向いていたため、難を逃れた。
この池田屋事件後、尊攘派の反発が強まり、長州藩尊攘激派は報復のためただちに国元を出発した。同年7月19日、長州藩尊攘激派は、千数百人の軍を率いて京都周辺に布陣していたが、ついに幕府軍と戦端を開いた。禁門の変の勃発である。午前2時、一橋慶喜は馬で御所に参内(さんだい)して、長州軍討伐の勅許を要請、午前3時、会津・桑名などの軍に出動を命じた。このとき、すでに伏見方面からの砲声が響いていた。前日の18日午前0時より長州軍は3方面から京都中心部に向けて行動を開始していたのである。
一隊は西方から御所に接近し、蛤御門(はまぐりごもん)に殺到した。同門を守る会津藩兵と激戦、一時は御所内に突入したが、薩摩藩、桑名藩の応援により撃退された。別の一隊は御所南面の堺町御門に向かった。彼らは福井・桑名・彦根藩兵と激しい砲撃戦を展開したが撃退された。ここで、負傷した尊攘激派の指導者久坂玄瑞は自刃した。後詰めの一隊は敗走に巻き込まれて総崩れとなった。こうして、御所に大砲を打ちかけた長州軍は、19日の昼すぎには敗北した。孝明天皇はこの事件に激怒し、21日長州藩に対する追討令を出し、24日、幕府は長州追討の勅命を受けて西国21藩に出兵を命じた(第1次長州征伐)。
●フランス公使ロッシュが着任、英仏の対立が激化
1864(文久4・元治1)年3月22日、フランスの駐日公使として、チュニス総領事などを歴任したレオン=ロッシュ(当時56歳)が着任した。イギリスの強硬策によって4国連合艦隊による長州攻撃が目前に迫った時期だった。
このころのフランスは、ナポレオン3世の治世下で産業革命が進行するなか、国内の対立を外交や戦争によって外に向け、対外貿易でも積極的に拡大しようとしていた。そこで、清国に続いて日本に目をつけたフランスは、日本公使に外交官として経験豊かなロッシュを派遣した。
来日したロッシュは、薩摩藩や長州藩など西南雄藩と結ぶイギリスと争い、イギリス公使パークスと激しく対立する。ロッシュは幕府に接近し、横須賀製鉄所の建設など、幕府への援助に力をそそいだ。王政復古にあたっては、徳川慶喜に軍資金や武器などの援助を申し出たが、断られた。
●8月18日の政変から、参与会議の瓦解へ
1863(文久3)年8月18日、薩摩・会津両藩が、尊攘派排撃を企て、孝明天皇(当時33歳)の承認を事前に得て、宮中クーデタをおこし、尊攘派を京都から追放した(8月18日の政変)。このクーデタは、少壮公卿と長州藩を中心に尊攘派の天下となっている京都を、その手から取り返そうとする公卿・薩摩藩・会津藩の策謀であった。翌19日、尊攘派志士たちは、三条実美(さねとみ)ら7人の公卿を擁して長州に下った。この結果、尊攘派は京都から一掃され、尊王攘夷運動は一時凋落した。
8月18日の政変の後、公武合体の実をあげるため、10月以後、雄藩の大名がつぎつぎに上洛、一橋慶喜(よしのぶ)・松平慶永(よしなが)・伊達宗城(むねなり)・松平容保(かたもり)・島津久光(ひさみつ)・山内豊信(とよのぶ)が朝議参与に任命され、参与会議が成立した。つづいて1864(文久4・元治1)年1月15日、将軍家茂(いえもち)が再上洛した。ここに公武合体体制がなったかにみえた。しかし、参与大名は長州への処分では一致していたが、開港問題では多数が開港への転換を説いたのに対し、一橋慶喜だけは鎖港攘夷論を主張した。結局、3月9日、参与会議の大名がいっせいに辞職して参与会議は瓦解した。
●薩英戦争が勃発
1863(文久3)年7月2日、この日の未明、イギリス艦隊が薩摩藩の汽船3隻を拿捕したことをきっかけに、同日正午、同藩の砲台がイギリス艦隊に激しい砲撃を加え、台風襲来のなかで薩英戦争が始まった。
さその前、6月27日、イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に姿を現し、代理公使ニールは前年8月の生麦事件の謝罪、犯人の処罰、賠償金などを要求した。しかし、薩摩藩がこれを拒否したため、イギリス艦隊は薩摩藩の汽船3隻を拿捕するという挙に出たのだ。
激しい戦闘で、薩摩藩側は、10砲台のほとんどと洋式工場集成館が破壊され、停泊中の琉球貿易船も焼かれ、鹿児島市街の一部も焼失した。他方、イギリス側も不意打ちを受けたうえ、台風襲来下で進退に困難し、各艦船とも被害を受け、60余名が死傷した。また薩摩側を甘く見たため弾薬・食糧・燃料の準備がなく、短期戦で退かざるをえなかった。翌7月3日にはイギリス艦隊は退去を開始し、横浜に向けて去った。
この戦いでイギリスのすぐれた艦砲の威力に驚いた薩摩藩は、攘夷の無謀に気づき、以後積極的に欧米の軍事技術を取り入れる方向に転換した。9月以後、両者のあいだで講和交渉が進められ、11月1日薩摩側は2万5,000ポンド(10万ドル)の賠償金を支払い、生麦事件の犯人逮捕・処罰を確約した。しかし、薩摩藩はこの賠償金を幕府から借りて踏み倒し、犯人の処刑は黙殺した。
●長州藩が奇兵隊を創設
1863(文久3)年6月7日、長州藩は、高杉晋作(当時25歳)の建言を認め、奇兵隊の創設を命じた。これは正規軍には入隊できない下士・陪臣・足軽・小者や農工商の者を募集して編制する軍隊で、「奇」兵隊とは、「非正規軍」を意味した。対外的危機の高まるなかで民衆自身の郷土防衛意識の高まりがあり、その軍事的動員をはかったのが奇兵隊であった。
奇兵隊につづいて御楯隊、遊撃隊、集義隊、八幡隊などが結成され、このほか自主的な郷土防衛隊として農兵隊が村役人たちの発起で誕生した。
これら諸隊は翌年の禁門の変と4国連合艦隊の下関攻撃後、武士の正規軍に代わってしだいに比重を高め、同年12月には高杉のよびかけで反乱をおこし、正規軍に勝利した。庶民出身者の多い諸隊は、大砲・小銃を中心とする集団戦法にすぐれ、やがて第2次長州征伐において幕府・諸藩連合軍を相手に大きな力を発揮した。
●下関事件で列国が報復攻撃へ
1863(文久3)年5月10日、長州藩の久坂玄瑞ら尊攘派は藩の制止を無視して米商船ペムブローク号を砲撃した。ひきつづいて、5月23には各砲台・艦船がフランス通報艦キンシャン号を砲撃、26日にはオランダ軍艦メデューサ号を攻撃したが、いずれも撃沈にはいたらなかった。
列国は幕府に強硬に抗議、アメリカ軍艦ワイオミング号が6月1日下関海峡を通過中、攻撃を受けるや反撃し、亀山砲台を破壊、庚申(こうしん)丸・壬戌(じんじゅつ)丸を撃沈、癸丑(きちゅう)丸を大破した。6月5日にはフランス艦隊が報復攻撃をし、陸戦隊250人が上陸して前田、壇ノ浦の砲台を破壊した。
この結果、武士からなる軍隊の無力であることが明らかとなり、これをきっかけに農工商の庶民の入隊を認めた高杉晋作の奇兵隊が創設されることになった。6月24日、長州藩は対岸の小倉藩の田野浦を占拠し砲台を築造、なおも下関海峡の通航の妨害を続けた。
これに対し列国は、長州藩への処罰、瀬戸内海の通航の自由、艦船損傷の賠償を要求したが、交渉は長引き、ついに翌年8月の4国連合艦隊の下関攻撃という事態にいたった。
●英仏軍隊が横浜居留地に駐屯
1863(文久3)年5月18日、攘夷派による横浜の居留地襲撃がうわさされるなか、幕府は、イギリスとフランスの軍隊が居留地に駐屯することを認めた。
前年10月には、浪士120〜130人が横浜の外国人居留地を襲い、さらに運上所(税関)を焼き払うという風評が流れたが、この年2月にはイギリス艦隊12隻が横浜に終結したことも重なり、風説は強まり、3月には神奈川奉行から住民の避難命令が出され、人心はますます動揺した。
こうしたなかで、イギリス代理公使ニールは、イギリス居留民の自力保護を幕府に通告した。4月6日、幕府がこれを黙認する旨を通告すると、イギリス軍はだちに上陸した。5月18日、幕府は英仏両国の提督に書簡を送り、正式に横浜居留地防衛のための駐兵権を与えた。フランス海兵隊300名は翌19日に上陸、6月6日にはイギリス兵も上陸し総兵力は1,200名に達した。この両軍の駐屯は明治維新ののちまで続いた。
●下関事件(長州藩が外国船を砲撃)が勃発
1863(文久3)年3月4日将軍家茂(いえもち、当時18歳)が3,000人の随員とともに上洛し、3月7日家茂は御所に参内(さんだい)した。そこでは、国事は事柄により朝廷が関与する旨の勅書が渡され、4月20日には幕府が攘夷決行の期日を5月10日とすると返答せざるをえなかった。こうして、将軍の上洛は幕府の権威の衰えを天下に示す結果に終わった。
同年5月10日深夜、下関海峡で風雨を避け、順潮を待っていた米商船ペムブローグ号に長州藩の庚申(こうしん)丸と癸亥(きがい)丸が接近して突如砲撃した。ペムブローグ号は豊予(ほうよ)海峡方面に逃走したが、下関事件の勃発である。5月10日は幕府が朝廷に約束した攘夷決行の期限であった。久坂玄瑞(げんずい、当時24歳)ら尊攘派は、光明寺を本営とし、この日を待っていた。ペムブローグ号は横浜から長崎を経由し上海に向かう途中、神奈川奉行から長崎奉行宛の文書をもっていたことから、藩は砲撃を制止したが、久坂らは藩命を無視して攻撃した。
●島津久光一行、生麦事件をおこす
1862(文久2)年8月21日、午後2時頃、生麦村(横浜市)にさしかかった薩摩藩の島津久光一行が、4人の騎乗イギリス人と鉢合わせし、薩摩藩の供の者が斬りかかってイギリス人に死傷者が出るという事件がおこった。イギリス人たちは「下に、下に」の前触れの意味がわからず、下馬しなかったので斬りかかられた。1人は死亡、2人は負傷して神奈川のアメリカ領事館に逃れ、1人は居留地に逃げ帰った。
この事件に「野蛮な殺戮」と激怒した列国の厳重抗議に幕府は動揺し、久光に滞留を求めたが久光一行はこれを無視して帰国の途についた。イギリスは、幕府に対し陳謝と賠償金を要求、幕府はイギリスの要求に屈し、翌年5月9日、61年のイギリス公使館が襲われた東禅寺事件と合わせ11万ポンド(44万ドル)の償金を支払った。イギリスは幕府とはべつに薩摩藩に対しても犯人の逮捕・処刑と償金支払いを要求、イギリス艦隊を鹿児島に回航させ、1863(文久3)年7月2日、薩英間に戦端が開かれた(薩英戦争)。