有史以来、5000年の人類の歩みを説明し、また理解することは大変なことだとおもいます。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が読みまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
教科書を読んでいると、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。
●皇族・華族・士族・平民、新しい身分制度創設
1872(明治5)年1月29日、政府は卒を士族と平民に分割した。卒のうち世襲のものは士族に編入され、他は平民となった。
すでに1869(明治2)年6月、政府は公卿と大名を華族(華族の爵位制度は1884(明治17)年に制定)、平士以上の武士を士族とし、同心や陪臣を卒とした。またこのとき、農工商は平民とされ、その下位におかれていたえた・非人も平民とされた。
1871(明治4)年、政府は戸籍法を公布した。これは、宗門人別改に代わる新しい戸籍制度で、翌72年施行されたことから、壬申(じんしん)戸籍という。
政府は、士農工商の廃止と四民平等政策を進めたが、実際は天皇を頂点とし、皇族・華族・士族・平民という新しい身分制度を創設したことになる。
●初の女子留学生、津田梅子ら5人、岩倉使節団に随行
1871(明治4)年11月12日、初の女子留学生5人が岩倉使節団とともに横浜を出発し、アメリカへ向かった。岩倉使節団には、この女子留学生を含む59人の留学生が随行した。
5人の女子留学生は、津田梅子(当時8歳)、永井繁子(当時9歳)、山川捨松(すてまつ 当時12歳)、吉益亮子(よしますりょうこ 当時15歳)、上田貞子(当時15歳)である。彼女たちの父親をみると、津田の父は幕臣で開拓使官吏、永井の父は幕臣、山川の父は会津藩士、吉益の父は幕臣で外務省官吏、上田の父は新潟県士族で外務省官吏であり、いずれも薩長土肥藩閥関係者の子女ではなかった。山川捨松・永井繁子・津田梅子は10〜11年間留学して帰国した。
5名のうち吉益亮子は早世したが、永井繁子は海軍大将瓜生外吉(うりゅうそときち)、山川捨松は陸軍元帥大山巌(いわお)、上田貞子は医師桂川甫純と結婚し、いずれも名流夫人となった。山川捨松は結婚後、外国人の接待に活躍し、鹿鳴館の女王といわれ、のち赤十字事業に尽力した。津田梅子は女子英学塾(のちの津田塾大学)をおこし、女子教育の振興に生涯を捧げた。
●正午に皇居から大砲で時をしらせる、太陽暦の使用へ
1871(明治4)年9月2日、きたる9月9日より皇居旧本丸において正午に大砲(午砲)を1発打つことが、太政官達(たっし)により布告された。
今までは、時刻は日の出、日没を基準とする不定時法で季節により変動があった。江戸城では城内の土圭(とけい)の間に大時計があり、辰刻(午前8時ころ)ごとに太鼓を打っていた。市中では各所に時鐘が設けられたが、打つ時刻には遅速があった。
午砲は兵部省(のち陸軍省)の管轄であり、時刻の測定は兵学寮、打ち方は武庫司(のち東京鎮台のあと近衛師団)が担当し、1922(大正11)年からは東京府の管轄となった。全国各都市でも午砲または時鐘が用いられるようになった。1873(明治6)年より太陽暦が使用されることになり、従来の不定時法は廃止され、24時法となった。
●文明開化、煉瓦造りにザンギリ頭、牛肉屋
1871(明治4)年、維新から4年、都市においては洋風化がしだいにすすんだ。この洋風化は「文明開化」とよばれ、人びとの生活を変えていった。
西洋のようすは福沢諭吉の『西洋事情』や中村正直の『西国立志編』で伝えられるなか、西洋の生活がまだわずかではあったが、人びとの生活にまで及んでいった。維新後最初の洋風建築は、1868(慶応4・明治1)年の築地ホテル館だった。1871(明治4)年になると、煉瓦(れんが)造りの建造物があちこちに出現した。4月に出版された仮名垣魯文(ろぶん)の『安愚楽鍋(あぐらなべ)』によると、浅草に牛肉屋があって大繁盛しており、牛乳・チーズやバターも売っていると述べている。また、西洋料理店もあちこちで開業し始めた。
町を歩く人びとのなかにもチョンマゲを切り、ザンギリ、半髪にするものも増え、斬髪をする西洋風床屋もできた。また官員や書生を中心に洋服姿もめだちはじめた。だが、下町の一般庶民はまだあいかわらず旧時代の生活のままであった。
●廃藩置県
1871(明治4)年7月14日、在京56の旧藩主が東京城に集められ、天皇から廃藩置県が申し渡された。廃藩置県の結果351の藩は廃され、1使3府302県となった(1使は開拓使)。
知藩事(旧藩主)は免官され、東京在住の華族となった。これまで藩に所属した家臣たちは、禄米を政府から支給されることになるが、その総額は租税収入の8割に及び、政府内ではその整理、つまり租税改革と秩禄(ちつろく)処分が課題となった。また藩有財産は一部を除いて国有財産となるが、膨大な負債も政府が継承し、藩債の処分が行われた。諸藩の発行したさまざまな藩札の処分も行われた。
11月には府県改置が行われ、1使3府72県に統合された。府県には知事がおかれていたが、以後は府に知事、県には県令(または権令(ごんれい))が任命された。知事・県令には当初、大蔵省のち内務省の官吏が任命され、中央集権の体制が確立した。