最終更新日2021年6月12日
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歴史の話題



有史以来、5000年の人類の歩みを説明し、また理解することは大変なことだとおもいます。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が歴史をまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
長年、教科書を読んできたものとして、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。
詳細は当研究会の「世界史地図・図解」や「日本史地図・図解」を参照してください。


●イスラーム教の諸宗派
 キリスト教世界にカトリックやプロテスタント各派などの宗派があるように,イスラーム教世界にも宗派があります。661年第4代カリフのアリーが暗殺されると、イスラーム教は、スンナ派(スンニー)とシーアに分裂します。スンナ派(スンニー)は現在のイスラーム世界の約9割を占める多数派です。コーランと預言者ムハンマドの言行(スンナ)を信仰の中心にすえ,イスラーム世界がたどった歴史を否定しない,現実的な態度を特徴とします。シーア派からみれば、後継者(カリフ)の地位の簒奪者であるウマイヤ朝の正統性と政策を支持します。シーア派は,預言者ムハンマドの正当な後継者は彼のいとこで娘のむこのアリーのみであると主張する諸分派の総称です。ここまでは歴史教科書でよく説明されています。ただ、それ以上の説明はありません。
 実際は、イスラーム教の宗派を代表的な宗派をあげても、十二イマーム派、イスマーイール派、ザイド派、ハワーリジュ派などがあり、さらにそこから分派が登場し、ムバラク派、ニザール派、ムスタリー派等々があります。今のイスラーム世界の混迷を象徴しているかのようです。
 シーア派で最も有力なものは、16世紀以降イランの国教となった十二イマーム派です。現在信徒数は1億人強います。アリーとその直系の子孫の計12名を無謬の指導者(イマーム)と認めます。第12代イマームのマフディーは874年以降「隠れ(ガイバ)」の状態にあり、世の終末に再臨し正義を確立するとされます。 そのほかイエメンではシーア派のザイド派を国教としています。イランは十二イマーム派の優勢な地域ですが,ほかにもイラク,イエメン,シリア,レバノン,インドにも分布します。世界史に登場する王朝としては、ファーティマ朝がシーア派のイスマーイール派であり、サファヴィー朝が十二イマーム派です。また、ワッハーブ派も世界史に登場しますが、これは外部からサウジアラビアの宗教を表す語で、同国国教は公式にはハンバリー派です。

●ミトラ教
 歴史教科書では「ローマ帝政期の民衆のあいだにはミトラ教など東方から伝わった神秘的宗教が流行したが、そのなかで最終的に国家宗教の地位を獲得したのがキリスト教である。」と、キリスト教と争った有力な宗教としてミトラ教をあげています。ただ、それ以上の説明はありません。それでは、ミトラ教とはどんな宗教なのでしょうか。
 ミトラ教は古代アーリヤ人起源の男神ミトラを崇拝する宗教です。ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』では,ミトラ神は光明・真実・死からの救済・至福・戦勝などをつかさどる神とされています。その後小アジアを経て,帝政期ローマに広まったときには,「牛を屠(ほふ)る神ミトラ」を祀り,秘儀伝授を重んじる密儀宗教の性格を持つようになっていきました。
 特に1世紀半ばから4世紀半ばにかけて,軍人・商人層を中心に盛んに信仰されました。3世紀後半にミトラ神が帝国の最高国家神に吸収されたことも手伝って,古代末期の最も有力な密儀宗教となりました。しかし,キリスト教の普及とともに衰退しました。キリスト教には,救済思想や儀式などにミトラ教との類似性が強くみられます。

●海の民
 ミケーネ文明の諸王国は前1200年頃にとつぜん破壊され、滅亡しました。その原因については外部勢力の侵入など複数の原因によるものらしいのですが、滅亡のはっきりした事情は不明です。ところで、歴史教科書ではこの外部勢力を「同じ頃東地中海一帯をおそった系統不明の「海の民」であったという説もある」と記述していますが、この海の民についての説明はありません。それでは、海の民とはどんな人びとなのでしょうか。
 海の民は紀元前13世紀末から前12世紀の初めにかけて、アナトリア(小アジア)およびシリア、パレスチナなど地中海東岸一帯に来襲して、前代の体制を一挙に崩壊させた混成移民集団です。原住地は判然としませんが、バルカン南部、エーゲ海域を経由して侵入しました。パレスチナでヘブライ人を山地に追いやって植民したペリシテ人はその一派です。アナトリアのヒッタイト王国は滅亡し、シリアの諸都市も多くが破壊され、かろうじてこれを撃退したラムセス3世(在位前1198〜前1166)のエジプト新王国も弱体化しました。なお、製鉄技術を独占していたヒッタイト王国の滅亡により、製鉄技術は諸国に広がり、オリエントは鉄器時代に入りました。

●フォークランド戦争(1982年)
 歴史教科書では「アルゼンチンでは、1982年にイギリスとフォークランド(マルビナス)諸島の領有をめぐる戦争で敗れた軍部政権が翌1983年に倒れた」と記述されています。しかし、フォークランド戦争がどんな展開を示したかの説明はありません。さらに、中国が尖閣諸島の領有権を主張している昨今、軍事衝突の懸念も消えないなか、地球の裏側で起こった地域紛争と切り捨てるわけにもいかない面もあります。
 フォークランド戦争は、大西洋上の英領フォークランド諸島の領有権をめぐる争いから、1982年にイギリスとアルゼンチンとのあいだに生じた軍事衝突です。
 4月に進攻したアルゼンチン軍に対して、イギリスのサッチャー首相は武力による解決策をとり、空母2隻を含む機動部隊を派遣し、5月にイギリス軍が上陸して奪還しました。この戦勝によってサッチャー政権は人気を回復しましたが、一方、敗れたアルゼンチンでは軍部政権が翌1983年に崩壊しました。
 アルゼンチン軍は空母1隻を有し、航空攻撃でイギリス艦船を撃沈するなど、当初は優位に戦いを進めましたが、イギリス軍は陸軍特殊部隊による陸上戦や、英領アセンション島からの長距離爆撃機による空爆、またアメリカ合衆国やNATO諸国の支援を受けて情報戦を有利に進めました。6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏し、戦闘は終結しました。両国の国交が再開され戦争状態が正式に終結したのは1990年2月5日ですが、国交再開交渉でもフォークランド諸島の領有権問題は棚上げされ、現在もアルゼンチンは領有権を主張しています。
 フォークランド戦争は、両軍ともアメリカ合衆国やフランス、ベルギーなどの兵器を装備しており、また、アルゼンチンはイギリスからも兵器を輸入していました。従って、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴もありました。そのため、戦後、西側諸国の軍事技術に様々な影響を及ぼしました。また、領土問題として尖閣諸島問題をかかえている日本・中国も、このフォークランド戦争を先行事例として研究しています。

● オーストリアとウィーンの分割占領と共同管理
 第二次世界大戦の敗戦国の戦後処理については、連合国が一定期間占領して、非軍事化や民主化をすすめることになりました。ドイツとその旧首都ベルリンについては、米・英・仏・ソによる分割占領と共同管理が実行されたことはよく知られています。同じ敗戦国オーストリアはどうだったのか、歴史教科書では「オーストリアはドイツと分離されて4国の共同管理下におかれた」と簡単にふれられているだけです。
 実際はオーストリアもドイツと同様に、国土全体と首都ウィーンが米・英・仏・ソによる分割占領と共同管理が実行されました。ドイツとことなるのは、ウィーンの都心部が4国の共同管理下におかれたことです。1955年5月、オーストリアは占領4か国と講和条約である国家条約を結び、占領管理から解放されました。残っていた米・英・仏の軍隊はわずか2万でしたが、10月末まで撤退し、約4万のソ連軍も9月末までに残らず引きあげました。国家条約はオーストリアの自由・独立・領土保全を承認し、ドイツとの政治的・経済的合体の禁止をさだめていましたが、オーストリアの中立にはとくに言及していませんでした。そこで同年10月26日、オーストリア議会はそれとは別に、自国の永世中立を宣言し、将来いかなる軍事同盟にも加入せず、国内にいかなる外国の軍事基地も認めない決意を述べた「憲法的法規」を通過させました。

● 第二次世界大戦勃発の発端となった独ソ不可侵条約締結の影響
 歴史教科書では「ソ連はナチス=ドイツとの提携に転じ、1939年8月末、独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせた。これに力を得て、ナチス=ドイツは9月1日、準備していたポーランド侵攻を開始した。」と記述されています。こうして、第二次世界大戦が開始されたわけですが、そのきっかけとなった独ソ不可侵条約ですが、締結した事実のみが記され、それ以外、記述は一切なく、「世界を驚かせた」と述べているわりにはその影響がどうであったのかには触れていません。では、実際はどうであったのか。
 まず、ソ連に対抗して日・独・伊防共協定を結んでいた日本では、「別途の政策樹立の必要」と称して、平沼騏一郎内閣が総辞職しました。西ヨーロッパでは、反ファシズムの中心のソ連がヒトラーと手を握ったことに、知識人が動揺し、少なからずの知識人が共産党から離れていきました。また、条約締結によってポーランドに侵攻しても英・仏が戦争にふみきることはないと判断していたヒトラーにとっては、英・仏の対独宣戦は大きな誤算となりました。この条約締結で一番有利となったのはソ連でした。しばらくの間ソ連は局外で中立を保ち、国力の充実をはかることができました。

● ドイツが中立国ベルギーへ侵入して、第一次世界大戦が勃発したわけは
 歴史教科書では表題の理由については詳述されていませんが、第一次世界大戦が長期戦となった理由がそこにかくされています。
 第一次世界大戦直前、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟とイギリス・フランス・ロシアの三国協商が対立していました。このようななかで、両陣営間で戦争が勃発した場合、ドイツはフランスとロシアに挟撃される苦しい立場におかれます。それにもかかわらずドイツは1914年8月1日にロシア、3日にフランスに宣戦布告をしました。この戦争に勝てるとするドイツの自信の裏付けは、19世紀のドイツ参謀長シュリーフェンが立案していた「シュリーフェン・プラン」にあります。ロシア、フランス2国と同時に戦うことを想定して考えられた作戦です。この作戦によると、ドイツ軍主力部隊がフランス軍主力が守る独仏国境での戦闘を避け、中立国ベルギーを通過してフランスに侵入、その後反時計回りにフランスを制圧し、独仏国境のフランス軍主力を背後から襲ってせん滅、返す刀で東部戦線でロシア軍を叩くという計画です。
 ドイツはフランスに8月3日宣戦布告するや、翌4日に西部軍150万を7軍に分け、ベルギーに侵入しました。予定通りベルギーを突破したドイツ軍ですが、9月5日マルヌ河畔でフランス軍の激しい抵抗に遭遇し、西部戦線は膠着します。
 一方、その間、8月20日、フランス軍の要請に応えロシア軍が東プロイセンに侵入しました。劣勢に立たされたドイツ軍はヒンデンブルクの指揮下、劣勢をはね返しロシア軍を撃破しました。タンネンベルクの戦いです。ロシア軍は撤退に追い込まれたものの、ドイツ軍の大部隊を東部戦線に移動させ、西部戦線でのフランス軍の壊滅を救いました。
 これにより西部戦線でのすみやかな勝利ののち、東部戦線に転じてロシア軍を撃破するという短期決戦の「シュリーフェン・プラン」は失敗に終わり、第一次世界大戦はこののち4年間にわたる長期の戦争になりました。

● 辛亥革命(1911年)のきっかけが、なぜ四川暴動なのか
 歴史教科書では、「一方的な鉄道国有化に猛反対し、四川では暴動がおこった。これをきっかけに、武昌の軍隊のなかにいた革命派が蜂起し、辛亥革命が始まった」と説明されていますが、なぜ四川暴動がきっかけなのか説明がありません。では、その間の事情はどのようなものだったのでしょう。
 1911年5月、清朝は幹線鉄道国有令を発して、川漢鉄道(四川の州都成都〜武漢(武昌はその近郊))と粤漢鉄道(武漢〜広州〜香港・九竜半島の北東近郊)の二つの民営鉄道を国有化することとしました。国有化した鉄道を英・米・独・仏の四国借款団からの借款で建設する密約も結ばれました。列強国からみても、四川〜武漢〜広州の鉄道路線は魅力的な鉄道利権でした。清朝は、列強からの借款を得て、その支配の延命をはかるために、自国の鉄道利権をいわば抵当にいれました。
 しかし、国有化の対象とされた2鉄道は利権回収運動など、ナショナリズムの高揚のなかで設立された民営鉄道によって建設されつつあったものです。しかもこの決定は、当事者である鉄道会社や、立法諮問機関である資政院・諮議局とも協議することなく行われました。鉄道建設予定地の四川・湖北・湖南・広東の各省の株主や一般民衆は、保路同志会などの団体を結成して鉄道国有化反対運動をすすめました。ことに四川省においては、反対運動が激化し、納税拒否や商店の一斉休業、学生のストライキに発展しました。

● ファショダ事件(1898年)とは
 歴史教科書では、「フランスは、サハラ砂漠地域をおさえ、アフリカを横断してジブチと連結しようとした。この計画はイギリスの縦断政策と衝突し、1898年にファショダ事件がおこったが、フランスが譲歩して解決した」と、簡単に説明されています。では、実際の展開はどのようなものだったのでしょう。
 フランス領コンゴのウバンギ川(コンゴ川の支流)上流域とエチオピアのあいだにあるナイル川上流域は、19世紀初め以来エジプト(1880年代以降、エジプトはイギリスの事実上の保護下)の支配下にありましたが、実際は現地の諸首長が自立して支配していました。フランスはこの支配状況を利用して、ジブチにいたるアフリカ横断策を達成しようとしました。
 1896年フランス武装探検隊は、フランス領コンゴを出発し、1898年7月ナイル河畔のファショダに到達しました。探検隊はただちに現地の首長と協約を結び、ファショダにフランス国旗を掲げました。同じ頃、イギリス・エジプト軍はマフディー運動鎮圧のため、スーダンに進出してきていました。そして、1898年9月ハルツームを占領したイギリス軍はファショダにおけるフランス探検隊の存在を知り、ファショダに急行し、探検隊に撤退を要求しました。探検隊はその要求を拒否し、両者の対立は本国政府間の交渉にゆだねられました。
 両国の世論は激高し、戦争の危険も生まれ、ヨーロッパ政局の緊張が1870年のプロイセン=フランス戦争以来の高まりをみせました。しかし、フランスは、ドレフュス事件の渦中にあって軍部の戦争準備が整わず、同盟国ロシアもイギリスを敵とすることを望まなかったので、譲歩を余儀なくされました。
 フランス政府は探検隊にファショダからの撤退を命じ、1899年イギリスとのあいだで協定を結びました。この結果のナイル川とコンゴ川の中間に南北の一線を画し、その東西をそれぞれ英仏の勢力圏としました。また、フランスは仏領コンゴからスーダンを経て、ナイル川流域に通商する自由権を認められました。

● アメリカ=スペイン戦争(1898年)勃発の真相は
 歴史教科書では、マッキンリー米大統領がキューバの独立運動に乗じて、1898年アメリカ=スペイン戦争をおこし、勝利したと述べています。では、開戦にいたる過程はどのようなものであったのでしょう。
 スペイン領キューバの砂糖産業に多大な利害を持つ企業が自国内にあるアメリカは、キューバの独立運動の激化がアメリカ企業の現地投資に及ぼす影響を恐れ、スペインに対しキューバ人の自治拡大を主張し、スペインも前年の1897年自治政府を立ち上げました。そんなとき、1898年2月15日、キューバのハバナ港で、アメリカ領事の派遣要請で停泊中のアメリカ軍艦メイン号が突然、爆発沈没して乗組員266名が死亡しました。翌日のアメリカの新聞は「メインを忘れるな、スペイン人を地獄におとせ!」と見だしをつけ、反スペイン熱をあおり、またニューヨーク・ジャーナル紙の現地記者がキューバから本社に「すべて平静、当地に問題なし」と打電すると、本社の返事は「とどまれ、写真を作れ、私は戦争を作る」でした。船の爆発原因は当時不明であったにもかかわらず、4月アメリカ=スペイン戦争が開始されました。

● ビスマルクのベルリン会議成功の鍵はオーストリア
 歴史教科書では、ビスマルクはベルリン会議を開き、列国の利害を調停したと記述されていますが、列国の利害についてはふれていません。
 列国の利害とは何か。ロシアは、1877年、オスマン帝国に対してギリシア正教徒保護を名目に開戦しました(ロシア=トルコ戦争)。ロシアは開戦にあたって、ルーマニアに対しロシア軍の域内通過の見返りに完全独立を支持し、オーストリアに対して中立維持と引き換えにボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合要求を認め、南下を開始しました。
 戦局がオスマン軍に不利に傾き、オスマン政府はイギリスに支援を求め、イギリスが軍をマルマラ海に派遣しました。そのため、イギリスとの交戦の危機を迎えたロシアは急きょオスマン帝国とのあいだで、1878年3月サン=ステファノ条約を結んで、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立と、大ブルガリアを保護下におくこと、アナトリア東部のオスマン領のロシアへの割譲を認めさせ、勢力拡大に成功しました。
 しかし、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合が認められなかったオーストリアと、ロシアの南下に反発を強めていたイギリスがこの条約の内容に反対したため、ビスマルクは1878年6月13日〜7月13日ベルリン会議を開き、列国の利害を調停し、その結果、サン=ステファノ条約は破棄され、同年7月あらたにベルリン条約が結ばれました。この条約で、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの占領と行政権が認められました。この会議の直前、同年6月4日にはイギリスとオスマン帝国のあいだで秘密条約が結ばれ、イギリスはロシアからアナトリアを守るかわりに、キプロス島の支配権を獲得しました。

● クリミア戦争への英の参戦はメディア報道から
 歴史教科書では、英・仏はロシアの南下を阻止するため、オスマン帝国を支援したので、クリミア戦争はヨーロッパ列強同士の戦いとなったと記述されています。
 実際はどのような経緯だったのか。1853年10月、ロシア軍とオスマン軍はドナウ川下流域一帯を戦場として開戦となります。装備にまさるロシア軍はドナウ川を越えて南下しますが、仏・英の支援により盛り返したオスマン軍がロシア軍をドナウ川以北まで押し戻し、戦局は膠着状態となりました。
 ところが、1853年11月、黒海南岸の港湾都市シノップでの海戦で、ロシア軍はオスマン艦船や港湾施設を徹底的に破壊しました。英メディアが「シノップの虐殺」と報道すると、英世論は急速に対ロシア強硬となり、英は仏とともにオスマン帝国と同盟を結んで、1854年3月28日、ロシアに宣戦布告しました。
 なお、同盟軍はドナウ川を渡河して、陸路オデッサの攻略を目指しましたが、オーストリア軍が国境地帯に部隊を配置して、同盟軍の進攻を阻止するかまえをみせたため、攻撃目標をロシア黒海艦隊の基地のあるクリミア半島の要衝セヴァストーポリ要塞に変更されました。

● 大飢饉(ジャガイモ飢饉)で、穀物法が廃止
歴史教科書では、コブデン・ブライトらの反穀物同盟による運動の結果、穀物法が1846年に廃止されたと記述されています。
 実際はどのような展開だったのか。1845年に発生したアイルランドの大飢饉は、本国イギリスを揺るがす大事件へと発展しました。ロバート=ピール首相は、アメリカ合衆国から大量のトウモロコシを購入して、アイルランドの穀物騰貴の防止に努めました。さらに、翌46年には、ジャガイモ飢饉に加えて、小麦の不作が重なり、食糧価格の高騰という深刻な事態を迎えました。
 そこで1846年、イギリスは輸入穀物に高関税を課す穀物法(1815年制定)の廃止に踏み切りました。

● 北米東岸のヨーロッパ諸国の植民地(1645年頃)
歴史教科書では、ヨーロッパ諸国として、オランダ、フランス、イギリスそしてスペインがあげられています。
実際は、当時、バルト帝国を形成しつつあったスウェーデンがニュースウェーデン植民地を建設していました。
ニュースウェーデン
 1638年,スウェーデン人がデラウェア川流域に植民地ニュースウェーデンを建設し,その拠点をクリスティーナ女王にちなみフォート・クリスティーナと名づけました。スウェーデン人による最初で最後のアメリカ植民地です。毛皮交易をめぐるヨーロッパ人同士の対立の激化のなか,1655年にニュースウェーデンはオランダに征服されました。