有史以来、5000年の人類の歩みを説明し、また理解することは大変なことだとおもいます。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が読みまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
教科書を読んでいると、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。
●新井白石、『西洋紀聞』を著すが、おおやけにされず
新井白石は、1709(宝永6)年にイタリア人宣教師シドッチを小石川の切支丹屋敷で取り調べたが、その記録をもとに1715(正徳5)年、『西洋紀聞』を著した。
同書は上・中・下の3巻構成となっている。上巻ではシドッチの潜入から取り調べ、さらに獄死にいたる経過を述べている。中巻には5大州の地理、諸国の政治・風俗・物産、スペイン継承戦争・北方戦争の経緯などが記されている。。下巻はキリスト教についてのシドッチの解釈と新井白石の解釈と批判が述べられている。
同書の内容のうち、地理書としての部分は同じ白石の『采覧異言』に及ばないが、キリシタン教義の解釈と批判を述べた下巻は、その明快さがきわだっている。白石は、この教義には、偶像・受戒・読経があり、天国・地獄、輪廻や因果応報の思想があって、一見したところ仏教と似ているがそれには遠く及ばないとした。さらに、デウスが天地を創造したというが、ではデウスはなによってつくられたのか、天国や地獄にいたっては迷妄であると断じている。
こののち、同書は国禁のキリスト教に触れた部分があったため、長く新井家に秘蔵されることとなった。
●鉄製千歯扱が発明され、脱穀作業に革命
1703(元禄16)年、この頃、千歯扱(せんばこき)が発明された。収穫した籾(もみ)の脱穀には手間がかかったが、従来の扱箸(こきばし)という脱穀具に代わって、千歯扱が発明され、脱穀の能率が大いにアップした。
千歯扱は4脚つきの床木に、先の尖った鉄片を櫛(くし)の歯のように密に並べて植え込んだもので、従来の扱箸に比較しておよそ10倍能率が上がったといわれる。麦を扱(こ)くための千歯扱は1688(貞享5・元禄1)年刊行の井原西鶴の浮世草子『日本永代蔵』にも登場するが、竹を鉄に変えることで稲扱きにも利用できるようにしたものである。
こののち、鉄製千歯扱は急速に普及する。そのため、これまで扱箸の手伝いで生計を補っていた後家の仕事を奪う結果となったため、「後家だおし」とも呼ばれた。
●越前福井藩、特産奉書紙の専売体制固める
1699(元禄12)年、福井藩は紙会所を設置して、特産品である奉書紙の流通・専売を統括させた。この頃、商品経済の発展とともに諸藩は競って特産品を奨励していた。なかでも換金商品として高い価値のあった紙は、各藩がこぞって保護育成につとめた。
越前五箇荘では室町時代から越前鳥の子(雁皮紙(がんぴし))や越前奉書紙を作ってきたが、江戸時代に入って越前奉書紙が幕府の公式文書である奉書に使用されて以来、特権的な地位を獲得した。また、広く武家の公用紙としても用いられたため、ますます需要は拡大した。福井藩は紙会所の設置によって、利益の独占だけでなく、品質の管理や向上に努めようとした。
●宮崎安貞の『農業全書』が出版される
福岡藩主黒田氏に仕える農学者宮崎安貞(やすさだ)が1696(元禄9)に『農業全書』10巻を著したが、『農業全書』は翌1697(元禄10)年7月に出版された。なお、安貞は出版された7月の23日に死去した。享年75歳であった。
のちに活躍する大蔵永常(ながつね)とならんで江戸時代有数の農学者と評される安貞は1651(慶安4)年に福岡藩に召し抱えられて200石を給されたが、いったん致仕した。致仕したのちは近畿をはじめ諸国を巡り、農業の実態と農民の生活を実見するとともに、各地で農業技術を学んだといわれる。福岡藩への再仕後は農村の振興、開墾の指導に努めていた。
安貞は中国の明代末に徐光啓の著した『農政全書』を参考にして、みずから見聞した日本各地の農法を整理・総合して『農業全書』にまとめあげた。同書は、農事総論から始まり、五穀・薬草・果木・生類養法・薬種などの項目に分類、みずから研究・体系化した詳細な農業技術論を展開した。8代将軍吉宗は『農業全書』を座右の書の一つとしたと伝えられている。
●江戸の豪商、上方の豪商
元禄期の前後に、巨大な商業資本家(豪商)が東西に現れた。江戸の紀伊国屋文左衛門(紀文)と奈良屋茂左衛門(奈良茂)、上方の三井八郎右衛門と鴻池善右衛門がその代表格である。
紀文と奈良茂は材木商で、山ごと木材を買い占め、幕府の大工事を請け負って財を築いた。「江戸の華」といわれる火事があれば、彼らの資産は何倍にもふくらんだ。典型的な「投機型」商人である。一方、三井は呉服商から金融業へ、鴻池も醸造業から金融業へと、長い時間をかけて事業を拡大してきた「堅実型」商人といえる。
両者は幕府政権との付き合いかたでも対照的だった。紀文らが幕府の特定の人物と賄賂によって結びついていたのに対して、三井らはやむをえない場合に限って、人物ではなく勘定方という幕府組織と関係を結び、なるべく深入りしなかった。老中阿部正武らと結びついて財をなした紀文は、彼らが退くと同時に衰えた。投機型の江戸の豪商は3代続かないといわれた。
●西川如見、『華夷通商考』を刊行
1695(元禄8)年3月、長崎に住む天文・地理学者の西川如見(じょけん)が『華夷通商考』上下2巻を刊行した。如見は鎖国下にあって外国との窓口である長崎に在住する地の利をいかして、その地で見聞した海外事情や通商関係を記した。如見はこのことにより、日本における洋学の先駆けとなった。
『華夷通商考』は、上巻に中華15省、下巻に外国(朝鮮・琉球など5カ国)・外夷(東南アジア11カ国)およびオランダと通交する35カ国を収録し、日本からの距離・風土・人口・産物・風俗などを通商の見地から紹介している。
1719(享保4)年7月には、8代将軍吉宗が西川如見を招いて引見した。
●江戸の諸問屋が十組問屋を結成
1694(元禄7)年、上方から海上で輸送される商品を扱う江戸の諸問屋が集まって、多発する難船事故に有利に対処するため十組(とくみ)問屋を結成した。十組問屋に連合した問屋組は、塗物店組、内店組(絹布・太物・小間物等)、通町組(小間物・太物等)、薬種店組(薬種・砂糖)、綿店組、紙店組(紙・蝋燭)、酒店組、表店組(畳表・青筵)、川岸組(水油)、釘店組(釘・銅・鉄類等)である。
巨大消費都市の江戸へは、経済先進地帯の上方、とくに諸国の物資集散地である大坂から17世紀後半以来、菱垣(ひがき)廻船に積載した「下り商品」が輸送されるようになっていた。しかし、海難が頻発したうえに、難破・破船と偽って船頭たちが船荷を横領する不正も生じていた。
当初は、事故のたびに損害をこうむるのは送り荷主である大坂の荷主問屋だった。江戸の問屋は受け取った荷を委託されてさばく荷受問屋にすぎなかったからである。だが、江戸の経済の発展とともに、江戸の問屋の中心は荷を注文して仕入れる仕入問屋に成長していった。仕入問屋は大坂の港から荷の所有権が生じたため、海難事故の多発に対策を立てねばならなくなった。これが十組問屋結成の理由であった。
十組問屋には、組ごとに当番行事がおかれ、その上に全体の大行事がおかれた。なお、のちに、酒店組が仲間から離れ、樽廻船で荷を運ぶようになった。
●別子山中に銅の大鉱脈、住友家が開発に着手
1691(元禄4)年5月9日、幕府は、豪商住友家泉屋(当主は4代目友芳)が願い出ていた伊予の別子銅山(現 愛媛県新居浜市・別子山村)の開発を許可した。
大坂に本拠を置いて銅鉱業と精錬を中心に営業する住友家泉屋は、3代目友信のときに備中吉岡銅山の経営に着手して実績をあげた。しかし4代目友芳の代になると、吉岡銅山は湧水により産出量が激減した。この危機に、前年秋、吉岡銅山の番頭と坑夫らによって別子山中に銅の大鉱脈が発見された。友芳はさっそく開発を幕府に願い出て、5月9日、5年を期限とする採掘の請け負いが許可された。
この頃、それまで最高産額を誇っていた関東の足尾銅山が衰退に向かっており、別子は、出羽の阿仁(あに)とともに、わが国最大の銅山として栄えていった。また、当初5年だった別子銅山の採掘期限も住友家の永代請け負いが認められた。銅を海外輸出品にしている幕府は、1749(寛延2)年から隣接する伊予西条藩領の立川銅山を幕領とし、別子銅山に組み込んで住友家にその採掘をゆだねた。
●松江藩、鉄の増産で財政再建へ
1691(元禄4)年1月11日、財政悪化に陥っていた出雲松江藩は、主要財源の一つである鉄を増産するため、鉄山の周辺での山畑の開発を禁止した。
中国山地北側に位置する松江藩領の南部は雲南地方と呼ばれ、古代から良質の砂鉄を産し、「たたら製鉄」が盛んである。「たたら」とは、大型の足踏みのふいごのことで、炉に木炭と砂鉄を交互に入れて、たたらで送風して精錬する。こうして得られた最上質の鉄を玉鋼(たまはがね)といい日本刀に用いられ、他の鉄は包丁・鎌・鍬など農具や日用品の材料となった。
1638(寛永15)年に松江藩主となった松平氏は、領内の農業生産高がおもいのほか低く、また、一族に知行を分けたこともあって、財政が悪化していた。そこで、早い時期から財政改革に取り組み、鉄は藩が買い上げ、大坂へ運んで専売していた。たたら製鉄は、「粉鉄(こがね)7里に炭3里」というように、原料を製鉄場の近くで調達しなければ採算が合わない。このため、鉄の増産をめざす松江藩は、山畑開発よりも鉄山運営を優先することにした。
なお、のちに松平氏は製鉄の藩直営を改め、鎌仲間に製鉄の特権を与えて上納銀を徴収するようになった。
●木賃宿、旅籠、本陣、脇本陣
江戸時代の宿には「木賃宿(きちんやど)」と「旅籠(はたご)」があった。木賃宿は宿泊のさい持参した米を炊くために木賃銭(薪炭料)を払う宿で、江戸時代初期にはこれが一般的だった。宿泊料は1675(延宝3)年の定めで主人が32文、従者16文、馬32文である。これに対して旅籠は1泊2食つきで、宿泊料は100文から300文とはるかに高い。それでも享保以後、食事つきが主流となっていく。
一方、こうした庶民の宿屋とは別に各宿場におかれていたのが、大名や旗本、公家が公用で泊まるための「本陣」「脇本陣」である。参勤交代では本陣に藩主と小姓ら、脇本陣には重臣・家臣らが泊まった。本陣は富裕な者が担当させられた名誉職的なもので、大名は宿泊料ではなく謝礼を払った。それが約1両から3両、大藩で5両くらいだった。数百人の面倒をみてこの謝礼では持ち出しで、大半の本陣は幕末には没落した。