有史以来、5000年の人類の歩みを説明し、また理解することは大変なことだとおもいます。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が読みまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
教科書を読んでいると、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。
●明治天皇が即位、公武合体から王政復古へ
1867(慶応3)年1月9日、祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王(当時16歳)が践祚(せんそ)し、明治天皇となった。前年12月25日に父孝明(こうめい)天皇が急死したための即位であった。
公武合体論者の孝明天皇が死去し、明治天皇が即位するや、朝廷の雰囲気は一変した。まず、1月15日、1863(文久3)年の8月18日の政変で謹慎処分となった公卿の一部が赦免された。同月25日、3月29日にも孝明天皇によって処罰された公卿の大量赦免が行われ、岩倉具視も入京を許された。こうして、朝廷は公武合体の路線から、討幕・王政復古へと急激に路線を変更させた。孝明天皇の急死と明治天皇の登場は、政治的な局面転換のきっかけとなった。ただ、明治天皇は若年で即位したため、成人するまでの政治的発言の記録は残されておらず、明治維新は側近の岩倉具視らの主導によったと考えられる。なお、明治天皇の即位の礼は翌1868(慶応4・明治1)年8月27日に行われ、9月8日明治と改元され、一世一元の制が定められた。
●渡米や渡欧の経験を生かし、福沢諭吉が『西洋事情』を出版する
1866(慶応2)年12月、福沢諭吉(当時33歳)の『西洋事情』初編3冊が刊行された。内容は欧米の政治や税法からガス灯・電信機などの制度・文物を解説、ほかにアメリカ・イギリス・オランダの歴史や政治・軍隊などを説明している。
福沢は1860(安政7・万延1)年咸臨丸で渡米、62(文久2)年幕府使節とともに渡欧して見聞を広めた。『西洋事情』はこのときの見聞と洋書の知識にもとづいて書かれたものである。この書によって、鎖国と攘夷しか知らない日本人は欧米文明の全体像を知ることができた。同書初編は海賊版を含めて25万部以上発行されたとわれ、幕末最大のベストセラーとなった。
●一揆や打ちこわし、全国で民衆が蜂起
1866(慶応2)年は、全国で世直し一揆や打ちこわしが頻発し、空前の広まりをみせた。
その要因としては数年にわたる不作が続き、加えて開国による経済変動により、諸物価が騰貴したことがあげられる。さらに第2次長州征伐により東海道や山陽道各地で物資の徴発と助郷の大量動員が行われ、民衆の不満は頂点に達しつつあった。
5月13日には大坂市内で不満が大爆発し、打ちこわしにあった市中の米屋は855戸に達した。このとき将軍家茂(いえもち)は大坂城に在城しており、捕らえられた町人たちは「発頭人(ほっとうにん)は御城内にあり」と叫んだという。同月28日には打ちこわしが江戸市中に波及した。江戸の打ちこわしは6月に入ってから猛威を極めた。6月13日武蔵の秩父地方で貧農の一揆がおこり、武蔵西北部から上野(こうずけ)に広がる10万人以上の大一揆に発展した。同月15日には陸奥の信夫・伊達2郡で17万人が参加した大一揆が勃発した。東海道の三河地方では第2次長州征伐のさい徴発された助郷の未払い金の支払いの要求などや、秋以降は天候不順による凶作も加わって三河全宿に騒動が広がった。
こうして1866(慶応2)年には全国で農民一揆106件、都市騒擾35件、村方騒動44件の計185件を数え、江戸時代を通じて最高に達した。
●徳川慶喜が15代将軍となる、孝明天皇は病没
1866(慶応2)年12月5日、徳川慶喜(よしのぶ、当時30歳)が第15代将軍に就任した。7月20日に第14代将軍家茂(いえもち)が死去、8月20日幕府は家茂の喪を発するとともに、慶喜の徳川宗家の相続を公表した。そして、12月5日慶喜は将軍宣下(せんげ)を受けた。慶喜はフランスかぶれといわれ、フランス語を学び、フランス料理を食した。彼は将軍になるや、ますますフランスとの連携を深め、軍制改革や兵庫開港を推し進め、徳川家の主導権回復に尽力した。
一方、天皇家では同月25日、孝明(こうめい)天皇が死去した。死因は流行性の出血性痘瘡(とうそう)であると推定される。享年36歳であった。孝明天皇は外国勢力に対しては徹底した攘夷主義者として知られていたが、政権については幕府に委任するという態度を変えなかった。討幕の動きが活発となってきた時期だけに、孝明天皇の死因をめぐっては、岩倉具視(ともみ)一派による毒殺説が広まった。その真偽については諸説があり、にわかに断定しにくい。しかし、佐幕的な孝明天皇の死が討幕派にとって、有利にはたらいたことはたしかである。
●第2次長州征伐で幕府軍敗報あいつぐなか、将軍家茂が病没
第2次長州征伐では、征長軍は「四境戦争」といわれるように、周防(すおう)大島(屋代島)口、芸州口、石州口、小倉口の4方面から長州藩を攻撃した。
戦闘は1866(慶応2)年6月7日、まず大島口から始まった。6月7日幕府軍艦が周防大島を攻撃し、ついで大島を占領した。これに対し長州藩は、12日高杉晋作が指揮して夜陰に乗じて幕府軍艦を攻撃、大混乱に陥らせ、15日幕府軍を敗走させた。芸州口では、6月13日開戦、征長軍主力のもと、もっとも激戦を繰りかえし戦闘は長期化した。石州口では、長州藩参謀の大村益次郎(当時42歳)が指揮し、7月18日浜田城を占領した。小倉口では、6月17日長州軍が海上から門司を攻撃、8月1日小倉城を占領した。
前年の1865年、将軍家茂(いえもち)は第2次長州征伐のため、江戸を進発、大坂城にはいった。しかし、翌1866(慶応2)年7月20日、戦況が幕府軍に不利のなか、家茂は大坂城で病没した。家茂は孝明(こうめい)天皇の妹和宮(かずのみや)を正室に迎え、公武合体をすすめていた。享年21歳であった。8月20日病没した家茂の喪が発表され、翌21日朝廷は第2次長州征伐休戦の勅書を発した。数ではまさった幕府・諸藩連合軍が長州軍に敗れた。