有史以来、5000年の人類の歩みを説明し、また理解することは大変なことだとおもいます。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が読みまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
教科書を読んでいると、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。
●上知令を撤回、水野忠邦失脚、天保の改革は挫折
1843(天保14)9月14日、幕府は江戸周辺10里四方の上知(あげち)、下総国印旛郡内と新潟の上知につづいて、この日大坂城周辺の上知を命じた。上知令の対象となった大坂周辺の大名・旗本をあわせると、26万8257石に達するとみられた。
この上知令は幕府財政の危機から、収入の低い幕府領と高い藩領とを取り替えることによって、幕府の収入増加をはかるとともに、重要地を幕府領に編入し、さらに複雑に入り組んでいた江戸・大坂の支配体制を整理し、外国の侵略に対する防御体制の確立をねらったものであった。さらに、大名の「領知替え」を幕府の命令により実施することによって、幕府の権力がまだ存在することを内外に示す目的もあった。
しかし、この上知令に対して、領地の取り替えを受ける大名は実質減収となり不満をもち、また藩に金を貸していた町人は、領主変更により借金を踏み倒されることを恐れた。農民も幕府の支配下での年貢増徴を恐れるなど、上から下まで打ち揃って実施に反対を示した。
こうした情勢に、老中のなかからも反対にまわるものが出てきて、結局、上知令は各方面からの反対により実施不可能となり、翌閏9月に撤回された。同じ閏9月13日、老中首座として天保の改革の実行にあたってきた水野忠邦が、この日罷免された。水野自身、上知令の挫折以来、解任を覚悟していたとみられ、この日も幕府の呼び出しに代理が応じ、水野の解任の命をうけた。こうして、天保の改革は挫折した。
●西洋外科のメッカ、順天堂開設
1843(天保14)年8月20日、蘭方医で、江戸の両国薬研堀(やげんぼり)に西洋医学の和田塾を開いていた佐藤泰然(たいぜん)(当時40歳)が、下総佐倉で蘭方塾「順天堂」を開設した。
泰然は長崎に遊学して西洋医学を修め、1838(天保9)年より江戸で塾を開いていた。これが西洋医学の奨励に熱心な佐倉藩主堀田正睦(まさよし)の目にとまり、要請を受けて塾を移転して順天堂を開設した。泰然は佐倉藩の客分扱いとされた。
順天堂ではオランダ語、西洋外科術が教えられたが、大きな特徴は、実際に病人の診療・外科手術が頻繁に行われたことである。そのため「療治定」を作成し、40種の手術方法の料金を明示した。医学を学び研究するする機関として、その実践的な研究方法は評判をよび、医学を志す若者が全国から広く集まることとなった。
のちに養嗣子佐藤尚中(しょうちゅう)が1872(明治5)年に東京下谷(したや)で順天堂病院を開設、さらにその3年後に湯島に移転し、第二次世界大戦後、順天堂大学となった。
●佐久間象山、意見書『海防八策』を進上
1842(天保13)年11月24日、松代藩士で海防顧問の佐久間象山(しょうざん)(当時32歳)が、「天下当今の要務を陳ず」としたためた海防に関する意見書『海防八策』を藩主で老中・海防掛の真田幸貫(ゆきつら)(当時52歳)に提出した。
この意見書は、アヘン戦争におけるイギリスの清国への侵略を分析し、ヨーロッパ諸国の海外進出策を検討していた。そしてイギリスが清国に続き属国として標的にしているのが日本であるとし、軽々しくイギリスの貿易要請に応じることは、清国の轍(てつ)を踏むかもしれないという危険性と、武力装備ではるかに勝るイギリスの貿易要請を拒んだ場合の危険性も同時に指摘、日本が当時おかれている危機的状況をつぶさにのべていた。
このなかで、象山が結論としたのは、西洋式軍隊の必要性であった。日本の軍備のぜい弱さを幕府高官に自覚させ、早急にその対策を練らねばならないことを気づかせるのが意見書の目的であった。
日本の軍備のおくれに気づいた象山は、前年より江川太郎左衛門に入門し、西洋式砲術を学び、さらにオランダ語を習得し、みずから西洋式砲術の塾を開いた。彼は「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」の考えを実践し、西欧のさまざまな実際的な技術を研究して、また「開国」を論じたが、そのために攘夷派に暗殺された。
●江戸南町奉行鳥居耀蔵、でっちあげで砲術家高島秋帆を検挙
1842(天保13)年10月2日、高島流砲術の創始者である高島秋帆(しゅうはん)(当時45歳)が、謀叛と密貿易の嫌疑をかけられ、肥前国長崎で検挙された。
秋帆の検挙を老中水野忠邦に進言したのは、江戸南町奉行の鳥居耀蔵(ようぞう)(当時47歳)で、長崎奉行伊沢政義と結託、秋帆は長崎会所調役頭取として、会計不始末の責任を追及された。だが、鳥居の申し立てには確証がなく、西洋流砲術に批判的な鳥居の徹底した蘭学嫌いと、秋帆への個人的感情によるものではないかといわれている。
その後、この事件は鳥居らの策謀であることが露見、1846(弘化3)年7月25日、秋帆は軽罪に処せられるが、伊沢は御役御免、鳥居は1845(弘化2)年に永預け(終身禁錮)となる。秋帆はこののち、ペリー来航にさいし赦免され、海防に活躍した。
●天保の改革で禁令頻発に、庶民は歯ぎしり
前年(1841(天保12)年)水野忠邦によって開始された天保の改革は、1842(天保13)年に入ると矢継ぎばやに禁止令をだした。その極端な贅沢禁止政策によって生活のうるおいを奪われた庶民からは、そうそうに水野の改革に対する非難の声があがった。
禁令によって、楽しみを奪われるのも、処罰を受けるのも庶民であった。2月12日に流行の品を高値で売っていた商人6人が召し捕らえられ、手鎖(てぐさり)に処された。2月29日には須田町忠兵衛店の髪結い常吉が、同月末には豆腐屋与八が高値で商売をしているとの理由で処罰された。いずれも物価統制令に抵触したためであった。同じ2月には宗教団体として大きな組織力をもっていた富士講が、経済行為や娯楽活動を派手におこなっているとの理由で禁止、3月には唄・浄瑠璃・三弦の女師匠の弟子取りを禁止、4月には初物の売買を禁止、5月には矢場に女矢拾いをおくことの禁止、6月には役者の似顔絵や女芸者のたぐいの錦絵、合巻、草子などの発売禁止、7月には高価な陶器や鉢植えの販売が禁止さる等々、娯楽への規制は強くなる一方であった。
さらにこれらの禁令には江戸南町奉行鳥居耀蔵(ようぞう)を中心とした、広い密告網組織により陰湿な監視体制が敷かれていた。庶民の間では、この禁令をだした老中水野忠邦に対して、「改革に名を借りて世の中つぶして、下の者の難儀も考えない」と、批判が渦巻いた。
●「三方領知替え」に庄内藩農民が反対運動
1840(天保11)年11月23日、11月1日に発表された「三方領知替え」に抗議する庄内藩農民の代表が、江戸に向かった。老中首座水野忠邦(当時47歳)をはじめ、老中などに駕籠訴(かごそ)を行うなど、反対の訴えをするためだった。
ことの発端は、1827(文政10)年川越藩主松平斉典(なりつね)が時の老中水野忠成(ただあきら)に、姫路への転封(てんぽう)を願ったことにある。川越藩は財政窮乏に陥っていたため、藩主に将軍家斉の第24子を迎えたのを機に、少しでも豊かな地に転封しようと画策したのだ。しかし転封は実現しなかった。
川越藩はその後もあきらめず、本家にあたる福井藩主に家斉の第49子斉善(なりさわ)が就任すると、本家と協力して積極的に大奥や家斉、さらに幕閣に働きかけた。その結果、川越藩主を庄内藩に、庄内藩主を長岡藩に、長岡藩主を川越藩に移すという「三方領知替え」が水野忠邦から発表された。
庄内藩では、200年近く酒井氏が治めていただけに、藩主酒井忠器(ただたか)の国替えはおもってもみなかったことであった。さらに、入封してくるのが財政的に苦しい川越藩主松平斉典だけに、農民にとっては過酷な課税が予想された。そこで、領知替え反対一揆がまたたくまに領内全域に広がった。藩主酒井氏にしても、転封先の長岡では、現在の藩収入の半分も確保できるかどうかわからない。そのため、庄内藩は農民の運動を黙認し、さらに藩主の父忠発(ただあき)は忠邦らに家斉へのとりなしを依頼した。
11月23日に出府した農民は目的を果たせなかったが、あとに続く代表が12月、忠邦をはじめ老中への駕籠訴に成功した。翌年4月には近隣の仙台・会津・米沢藩などに事情を訴え、その支持を得た。さらに外様大名らの支持も広がり、江戸町奉行も動かすまでになった。こうして、翌年7月12日、幕府の再審議の結果、「三方領知替え」は中止となった。
●清国でアヘン戦争勃発、オランダ船が情報伝える
1840(天保11)年7月、長崎に入港したオランダ船から、アヘン戦争の勃発という情報がもたらされた。
清(シン)国の広東(カントン)でイギリス商人が密売していたアヘンが摘発されたことは、前年6月のオランダ船が幕府に提出した「オランダ風説書(ふうせつがき)」で伝えられていた。その後、アヘン貿易をめぐってイギリスと清が事実上交戦状態に突入し、この年の2月、紛争解決のためにイギリス議会が清国出兵を正式に決定したと、今回7月の「オランダ風説書」は伝えた。
あわてた幕府は、情報収集に努め、広東港外でイギリス軍艦と清国船が砲撃戦を展開し、清国の船はイギリス軍艦に撃破されたとの情報を得た。その後に幕府に伝えられた情報はさらに深刻であった。12月に来航した清国船から提出された「唐風説書」には、清国が大敗していることが記されていた。
この結果、幕府はイギリスに抱いていた侵略の恐怖を現実のものとして認識せざるをえなくなった。さらに、翌々年になると「オランダ風説書」は、イギリス船が日本に来航し、その対応の仕方によっては一戦交えることもありうると述べられていた。
幕府はここにいたって、諸大名を動員して江戸湾の防備を固めるとともに、外国船への薪水(しんすい)の供給に関する「天保の薪水給与令」を出すことになった。
●長州藩、村田清風を起用し藩政改革へ
1840(天保11)年7月7日、8万5,000両にのぼる借金を抱えた長州藩が藩政改革に乗り出した。藩主毛利敬親(たかちか)(当時22歳)により、藩政改革を任されたたのは、禄高50石の郡代官の家に生まれた村田清風(せいふう)(58歳)であった。
長州藩ではばく大な借金もさることながら、1831(天保2)年7月には参加者10万人をこえる大一揆がおこり(防長一揆)、その後も32年、36年と続発し、もはや藩として座視できない状況となった。そこで7月7日、財政改革についての藩の大会議を開き、改革派の領袖(りょうしゅう)村田清風らの意見を入れて、財政改革に取り組むことになった。
村田は、年貢を負担する農民の経営をなりたたせるため、荒れ地の免税や専売制の一部廃止や緩和を実施した。また藩の武士の救済のための37カ年賦返済、下関を通過する他藩の船荷を担保にした他藩の船舶への高利の貸し付けなどを実施した。
●通称「遠山の金さん」、北町奉行に抜擢
1840(天保11)年3月2日、勘定奉行遠山左衛門尉景元(さえもんのじょうかげもと)(当時48歳)が、北町奉行に就任した。遠山の能力を評価した老中水野忠邦による抜擢であった。
通称「遠山の金四郎」で親しまれた新奉行は、若いころは遊里に入り浸り、無頼の徒と懇意であったともいわれる。巷間伝えられる背中の桜吹雪の入れ墨の真偽については、いっさい不明である。
翌1841(天保12)年8月、遠山は、その鮮やかな裁きぶりが将軍家慶(いえよし)の目にとまり、奉行の鑑との評価を得た。しかし、水野忠邦が以後行う天保の改革の政策には批判的で、41(天保12)年12月公布の株仲間解散令に対しても、混乱を生むだけであると反対して通達を引き延ばし、謹慎の処分をうけた。
忠邦は、改革推進のために、腹心の鳥居耀蔵(ようぞう)を南町奉行に送り込んだ。江戸市民の実情を無視して過酷な取り締まりを行おうとする鳥居と遠山では、意見があうはずがなかった。結局、遠山は43(天保14)年に大目付に転出させられた。
●蛮社の獄、崋山・長英らを逮捕
1839(天保10)年5月14日、蛮社(蛮学社中)の中心で三河田原藩家老の渡辺崋山(当時47歳)が、江戸北町奉行に召喚された。つづいて、17日には小関三英(おぜきさんえい)(当時53歳)が逮捕を予期して自殺、さらに18日夜には一時身を隠していた高野長英(当時36歳)が奉行所に自首した。蛮社の獄の始まりである。
事件のきっかけは、幕府役人たちの反目であった。1837(天保8)年のモリソン号事件にさいして危機感をもった水野忠邦は、江戸湾防備のために、代官江川太郎左衛門(当時39歳)と目付鳥居耀蔵(ようぞう)(当時44歳)に江戸湾巡視を指示した。江川は幕府内部でも開明派として知られ蛮社の一員であり、一方鳥居は林大学頭(だいがくのかみ)述斎の次男で、徹底した蘭学嫌いの保守派であった。
この巡視終了後、江川が崋山から助言をうけて巡視の復命書を書きあげたことを聞きつけた鳥居は、崋山とその同志について調査させた。鳥居はその調査にもとづき江川らを告発する一方で、崋山が無人島渡航計画に関与したこと、大塩平八郎と関係があったことなどを、水野忠邦に訴えでた。
江川を信頼していた忠邦は、その内容を独自に調査させ、多くは事実無根であることが判明した。しかし、崋山の自宅から押収された著書『慎機論』が幕政を誹謗するものとして、崋山は田原(愛知県田原町)に蟄居となり、長英も著書『戊戌夢物語』が幕政を批判するものとみなされ、永牢となった。崋山は1841(天保12)年10月に自殺し、長英も1845(弘化2)年に脱獄逃亡するが、50(嘉永3)年10月に江戸の隠れ家を役人に急襲され自殺した。