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日本史の歴史地図へのお誘い
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特集 日本の民家のあゆみ

−庶民の住まいからみる日本の歴史−



竪穴住居と掘立柱住居  院政期の京都の町家  中世末期京都の町家  江戸の裏長屋

屯田兵の入植  文化住宅  2DK団地生活

(これらの図解と説明文は、『日本史地図・図解集』にも収録されています)


 ここでいう「民家」とは、農家・漁家・町家などを総称した庶民の住まいをいいます。ここでは町家を中心とした、日本の民家のあゆみを概観することで、日本の歴史をながめます。

竪穴住居と掘立柱住居(奈良時代)

竪穴住居と掘立柱住居

 竪穴住居と掘立柱住居は、穴を掘り、柱を直接地面に埋め込む点では同じです。ただ、地面を掘りくぼめた形跡がなく、掘立柱の跡のみを残す住居の遺構を、竪穴住居と区別し掘立柱住居とよびます。
 律令政治が展開した8世紀には、農業にも進歩がみられ、鉄製の農具がいっそう普及しました。民衆の住居は、竪穴住居にかわって平地式の掘立柱住居が西日本からしだいに普及しましたが、東日本では一般に竪穴住居が基本で、倉庫などの掘立柱建物と共に存在しました。
 村上遺跡は千葉県八千代市の台地上に8世紀前半から9世紀後半にかけて営まれた東国の代表的な集落跡です。複数の竪穴住居、掘立柱建物、倉庫からなる建物群5つで構成されています。


院政期の京都の町家(平安時代)

院政期の京都の町家

 『年中行事絵巻』は後白河上皇の勅命で常磐光長らが描いたとされる60巻から成っていたといわれる絵巻物です。宮中の主要な年中行事が絵画化されています。原本は12世紀ですが、1661年の内裏の火災で焼失し、模写が伝わっています。
 描かれているこの図は平安京内(京都)の町家で、連続建ての長屋として造られており、1戸の間口は3間、奥行は4間とみられます。向かって右側に入口を開き、その奥をおそらく通り庭とし、左側2間には床を張り窓を開いています。柱は掘立てらしく、壁は網代を張り、屋根は板葺きであり、押さえとして丸太がのせられています。


中世末期京都の町家(室町時代)

中世末期京都の町家

 「洛中洛外図屏風」はおよそ1530年頃の京都の状景を描いたもので、これによって当時の民家の状態をうかがうことができます。描写されている町家は大部分が平屋で、2階建てのものは少なく、間口は2間か3間、奥行は2間で小規模なものです。屋根は石置板葺が多く、壁は土壁で、入口に布やむしろをかけ、窓には格子を組んでいます。商店は見世棚(店棚)を出すか、または床上全部を開放して商品を並べます。建物自体は地中に柱を埋め込む掘立柱式の建物です。また家々の裏手は一つの大きな広場になっていて、樹木が植えられ、井戸、便所らしい建物がこの屏風に描かれています。


江戸の裏長屋(江戸時代)

江戸の裏長屋

 近世になると、中世に主流であった掘立柱ではなく、礎石の上に柱を建てる礎石建て(石場建て)が普及していきます。それにより掘立柱の土中に埋まる柱根が腐朽しやすいという欠点が解消され、民家の遺構も残るようになりました。また石置き板葺きから、防火の面から瓦葺きが奨励され、18世紀後半頃には桟瓦葺き屋根が普及します。
 江戸時代中期から末期にいたる間に、都市江戸の商業活動はますます盛んになり、人口はますます稠密となりました。主要街道沿いには商人の店舗が並びますが、路地から奥にはいると店借の裏長屋が密集するというかたちが一般化していきます。
 この図は江戸木挽町六丁目の1区画の図で、間口7間3尺余(京間)、奥行21間、およそ157坪の土地のなかに20戸分の長屋がひしめいていました。一般的な長屋は間口9尺(約2.7m)、奥行2間(約3.6m)の3坪で、4畳半の居間と台所兼用の土間からなり、井戸、便所、芥溜まりは共同使用でした。


屯田兵の入植(明治時代)

屯田兵の入植

 屯田兵制度は北海道開拓とロシアに対する警備にあたった農兵制度です。1874(明治7)年、開拓次官黒田清隆の建議で制度化、75年屯田兵村が設置され、入植を開始、士族授産の意味もあり、初め宮城・青森・酒田3県の困窮の士族が移住しました。1904(明治37)年に屯田兵条例は廃止されました。
上川屯田
 上川屯田は開拓が中心で、家族をもつ17歳から25歳までの身体堅固、兵農の労働に耐えられる者が採用されました。移住者は小樽まで船で、そこから空知太(現 滝川市)まで貨物列車を利用、そこから移住先の上川まで徒歩で行きました。到着後、日常の生活用具として鍋2つなど、農具として図のような官給品が支給され、建坪17坪5合(約58平方メートル)の柾(まさ)葺き、板壁の兵屋、さらに宅地を含む1万5千坪(約5ヘクタール)の土地が支給されました。
 旭川、当麻の大木密集地での開墾は、兵屋の周りから始められ、樹木伐採後、熊笹や雑草を刈り取って焼き払い、鍬で耕すという手順で行われました。作物は、麦類、アワ、ヒエ、豆類、トウモロコシ、ジャガイモなどのほか、桑や麻も作付けされました。
 兵役は、現役3年、予備役4年、後備役13年の20年で、移住後3か月は新兵として午前訓練、午後開墾の日々で、その後は、訓練や演習は農閑期に行われました。上川屯田兵は1896(明治29)年以降、第7師団所属となり、日露戦争に出征して多くの戦死傷者を出した1904(明治37)年に屯田兵制は廃止となりました。


文化住宅(大正から昭和にかけて)

文化住宅

 文化住宅とは、大正時代から昭和にかけて流行した和洋折衷の住宅様式です。大都市近郊に住む中流階層のあいだで流行しました。和風住宅の玄関脇に洋間をおき、茶の間(居間)、ガス・水道を完備した台所と浴室を設けたのが特徴で、赤や青の彩色瓦を使用することが多くみられました。


2DK団地生活(戦後の高度成長期)

2DK団地生活

 第二次世界大戦後の高度経済成長のはじまりにともない大都市部の勤労者が増加するなか、住宅不足を解消するため、政府は1955年日本住宅公団を設立し大都市近郊に鉄筋コンクリートのアパート群、いわゆる公団住宅を建設しました。当時、「寝食分離」を目指した基本間取り2DK(ダイニングキッチンと和室が2部屋)の団地に入居することは国民の憧れの的でした(団地族)。こうして、2DKとよばれる住宅形式は戦後日本における住宅形式の原型となりました。
 その後、住宅規模は拡大され、寝食分離に加え「公私室の分離」が求められました。家族が集まる場としてのリビングが誕生し、日本の住宅形式を示すn−LDKの原型が生み出されました。