最終更新日2026年10月11日
日本史の歴史地図へのお誘い
詳解日本史歴史地図・図解
−北前船−
近世中期から明治中期にかけて、主として西廻航路に就航していた廻船は、瀬戸内や上方で「北前船(きたまえせん)」の名で親しまれていました。しかし、明治初期には、西洋型帆船や蒸気船が導入され、明治中期に鉄道輸送も発達するなかで、北前船は急速に衰退しました。盛期の華やかさにくらべてあまりに早い衰亡だったため、後世、「幻の花形廻船」と呼ばれています。
北前船の多くは、冬は大坂・木津川の船囲場に繋留されていました。船主たちは春になると荷積みを始めます。大坂で古着・砂糖・綿織物・酒・諸雑貨などを買い積み、瀬戸内海諸港でさらに塩や畳表などを買い足し、下関に向かいます。下関で天候の様子を見て、北海道の漁場をひかえる諸港をめざして、出航します。
その航海中、沿岸諸港に立ち寄りながら北上し、それらの港で、積み荷を売却し、北海道向けの品物(米・大豆・草鞋・縄・俵など)を買い込みます。そして、北海道への到着は鰊漁の盛期にあわせるように努めました(下り荷)。帰りの船は、鰊などの干魚・塩魚類、〆粕(魚肥)、昆布類などを上方へ回送しました(上り荷)。このように、大規模なものは上方から北海道を1往復するものでした。そのほかに、局地的な往復をするものもありました。
1864年の石川県加賀市船主酒谷家の例では、その利益は下り荷20両余り、上り荷2200両と記されています。このように、北前船の船主は、順調なときは途方もない大儲けをするかわりに、しばしば起きる海難事故や船の修理・維持費で大金を失うことも少なくなく、浮き沈みの激しい商いとして知られていました。そこにまたこの商売の魅力があり、北前船の名を高めました。