最終更新日2026年9月5日
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詳解日本史歴史地図・図解


家康と松前藩の成立(1604年)



(この画像と説明文は『日本史地図・図解集』に収録されています)


家康と松前藩の成立(1604年)


 1596(慶長1)年11月、蠣崎慶広は長子盛広とともに大坂に参勤した際、父子そろって大坂城西の丸において徳川家康に拝謁しました。1598年8月豊臣秀吉が死去し、主として家康が政務をとると、翌1599年11月、大坂城西の丸において第二子忠広とともに家康に拝謁し、蝦夷島地図及び家譜を差し出し、氏を松前と改めました。1600年9月家康が関ヶ原の戦いに勝利し、事実上の中央政権の主権者になると、翌1601年春、長子盛広が京都で家康に拝謁し、5月に従五位下に叙せられ、若狭守に任じられました。2年後の1603年2月、家康の征夷大将軍宣下の際、盛広が家康の上洛に供奉し、慶広もまた江戸に参勤しました。こうして、松前家の忠勤の態度が認められるかたちで、1604(慶長9)年正月27日、家康は黒印状を慶広に与えました。
 家康の黒印状では、その骨子が秀吉の朱印状(『国政之御朱印』)における船役徴収権、課税権の公認を軸としているものの、新たに第一条で一般和人のアイヌとの直売買の禁止を明記するなど、松前氏による蝦夷地交易独占権の公認をより明確に規定しています。
 さらに、第三条で「夷人に対し非分申懸くるは、堅く停止の事」と、アイヌ人に対する和人の非法行為の禁止を謳っています。また、「付、夷之儀は、何方へ往行候共、夷次第致すべき事」と、アイヌ人の行動についても明文化しています。このことは、幕府が和人の行動のみならず、アイヌ人の行動についても、明確な意志を示したことを意味しています。
 松前慶広はこの家康の黒印状を手にすることによって、近世大名としての地位を確立し、ここに日本最北の藩−松前藩が成立しました。