最終更新日2025年5月1日
日本史の歴史地図へのお誘い
日本史の学習室
−遣唐使−
次の文の( )に適する語句を入れ、図版の空欄に適語を答えよ。
618年、隋にかわって中国を統一した唐は、アジアに大帝国を築き、広大な領域を支配して周辺諸地域に大きな影響を与えた。西アジアとの交流もさかんになり、都の(1)(現、西安(せいあん))は世界的な都市として国際的な文化が花開いた。
東アジアの諸国も唐と通交するようになり、日本からの遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で、894(寛平(かんぴょう)6)年の(2)による建議で停止されるまで、派遣された。大使をはじめとする遣唐使には、留学生(るがくしょう)・学問僧なども加わり、多い時は約500人もの人びとが、4隻の船に乗って渡海した。しかし、造船や航海の技術は未熟であったため、政治的緊張から新羅の沿岸を避けて東シナ海を横切る航路をとるようになると、海上での遭難も多く、また玄宗皇帝に重用されて高官にのぼった(3)のように唐の地で亡くなった人びともいた。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度や国際的な文化をもたらし、日本に影響を与えた。とくに帰国した(4)や僧の(5)は、のち聖武(しょうむ)天皇に重用されて政界でも活躍した。
朝鮮半島を統一した新羅とも使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、ときには緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、外交とは別に民間商人たちの往来はさかんになった。一方、北方の中国東北部などに住む靺鞨(まっかつ)族や旧高句麗人を中心に建国された(6)と日本とのあいだでは、親密な使節の往来がおこなわれた。(6)は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀(じんき)4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から、(6)と友好的に通交した。
答え
(1 )(2 )(3 )(4 )
(5 )(6 )(7 )(8 )
(9 )(注、789は国名)(10 )
解答
1長安 2菅原道真(すがわらのみちざね) 3阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
4吉備真備(きびのまきび) 5玄ム(げんぼう) 6渤海(ぼっかい) 7渤海 8新羅 9唐
10長安
(ワンポイント知識)
鹿児島県の旧国名は薩摩、大隅。鹿児島は桜島の古名。崖という意味の「カゴ」から、四方に崖をもつ「カゴ島」が県名の由来。
(センター試験 改)
唐に向かう海上ルートは時期によって異なった。このことに関して述べた文として誤っているものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ 7世紀には、朝鮮半島沿岸を通る北路がとられた。
A 8世紀には、新羅との関係が改善されたので南路をとった。
B 南路をとった場合には、中国江南の明州などに到着した。
C 北路と比べて南路には、航海上の危険性が大きかった。
解答 A
解説
Aは誤。「新羅との関係が改善されたので」が誤り。8〜9世紀には新羅との関係が険悪となったため、遣唐使の航路も南路や南島路に切り替えられた。
(共通テスト 改)
外交使節の往来に関連して、唐や朝鮮半島の王朝との関係や、人々の交流について述べた文として最も適当なものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ 日本は唐から冊封を受け、定期的に唐に使節を送った。
A 日本は8世紀を通して新羅とは対等な外交関係を望んでいた。
B 唐への留学経験がある吉備真備と玄ムは、橘諸兄政権下で活躍した。
C 日本と新羅との関係が悪化したことから、9世紀には新羅商船も来航しなくなった。
解答 B
