最終更新日2025年5月13日
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日本史の学習室
−国家仏教の展開−
次の文の( )に適する語句を入れよ。
奈良時代には、仏教は国家の保護を受けてさらに発展した。とくに仏教によって国家の安定をはかるという(1)の思想は、この時代の仏教の性格をよく示している。
奈良の大寺院では、インドや中国で生まれたさまざまな仏教理論の研究が進められ、三論(さんろん)・成実(じょうじつ)・(2)・倶舎(くしゃ)・華厳(けごん)・(3)の(4)と呼ばれる学系が形成された。(2)宗の義淵(ぎえん)は玄ムや社会事業に尽力した(5)らの門下を育て、華厳宗の良弁(ろうべん)は唐・新羅の僧から華厳を学び、東大寺建立に尽力した。また、入唐して三論宗を伝えた道慈(どうじ)も大安寺建立などの事業に力を尽くした。
当時の僧侶は宗教者であるばかりでなく、最新の文明を身につけた一流の知識人でもあったから、玄ムのように聖武天皇に信任されて政界で活躍した僧もあった。日本への渡航にたびたび失敗しながら、ついに日本に戒律(かいりつ)を伝えた唐の(6)らの活動も、日本の仏教の発展に寄与した。
一方で、仏教は政府から統制を受け、一般に僧侶の活動も寺院内に限られていた。(5)のように、民衆への布教とともに用水施設や救済施設をつくる社会事業をおこない、国家から取締りをうけながらも民衆に支持された僧もあった。光明皇后が平城京に(7)を設けて孤児・病人を収容し、(8)を設けて医療にあたらせたことも仏教信仰と結びついている。
仏教の(1)の思想を受けて、聖武天皇による国分寺建立や大仏造立などの事業が進められたが、仏教保護政策下における大寺院の壮大な伽藍や広大な寺領は、国家財政への大きな負担ともなった。仏教が日本の社会に根づく過程では、現世利益を求める手段とされたり、在来の祖先信仰と結びついて、祖先の霊をとむらうための仏像の造立や経典の書写などもおこなわれた。また、仏と神は本来同一であるとする(9)思想がおこった。さらに仏教の政治化をきらい、大寺院を離れて山林にこもって修行する僧たちが出て、やがて平安新仏教の母体となっていった。
唐招提寺は、(6)を開祖として759(天平宝字3)年に開かれた。受戒(得度)した僧侶は宗派を問わず、一定期間この寺に住し、律蔵を学習した。唐招提寺は一部の宗派を除いて、すべての僧侶の戒律学習の道場として機能した。唐招提寺は、(6)を師事する貴族たちによって、当初私寺として開かれた。761(天平宝字5)年頃に最初に建立された講堂は、下賜された平城宮の東朝集殿を移築改造したもので、平城宮の宮殿を知る唯一の遺構である。また、金堂は(6)の死後建立され、天平建築を代表する遺構の一つである。
答え
(1 )(2 )(3 )(4 )
(5 )(6 )(7 )(8 )
(9 )
解答
1鎮護国家 2法相(ほっそう) 3律(りつ) 4南都六宗 5行基(ぎょうき)
6鑑真(がんじん) 7悲田院(ひでんいん) 8施薬院(せやくいん) 9神仏習合(しゅうごう)
(ワンポイント知識)
熊本県の旧国名は肥後。現在の熊本市茶臼山に、加藤清正が熊本城を築いてのち、城下町が発展し、この城の名、熊本城からとった。
(センター試験 改)
奈良時代の仏教に関連して述べた文として誤っているものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ 神宮寺が建てられ、神前で読経するなどの神仏習合が始まった。
A 官営の大寺院や国分寺では、鎮護国家のための法会がおこなわれた。
B 南都六宗では、仏教教理の学問的研究に力がそそがれた。
C 官営の寺院の多くは山中に建てられ、建物は地形に応じて配置された。
解答 C
解説
Cは誤。奈良時代の官営の寺院は、平城京遷都とともに飛鳥地方にあった寺院の多くが移され、都に一定の様式の伽藍配置で造営された。伽藍が山中の地形に応じて配置されるのは、平安時代初期の室生寺が代表例。
