最終更新日2026年8月24日
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日本史の学習室
−江戸幕府の成立−
次の文の( )に適する語句を入れよ。
織田信長と同盟し、東海地方に勢力をふるった徳川家康は、豊臣政権下の1590(天正18)年、(1)氏滅亡後の関東に移され、約250万石の領地を支配する大名となった。五大老の筆頭の地位にあった家康は、秀吉の死後に地位を高めた。
五奉行の一人で豊臣政権を存続させようとする(2)と家康との対立が表面化し、1600(慶長5)年、(2)は五大老の一人毛利輝元を盟主にして兵をあげた(西軍)。対するのは家康と彼に従う福島正則(まさのり)・黒田長政(ながまさ)らの諸大名(東軍)で、両者は(3)で激突した(これを(3)の戦いという)。
天下分け目といわれる戦いに勝利した家康は、西軍の諸大名を処分し、1603(慶長8)年、全大名に対する指揮権の正統性を得るため(4)の宣下(せんげ)を受け、江戸に幕府を開いた。江戸時代の開始である。家康は国内統治者として佐渡をはじめ全国の主要な鉱山を直轄にし、アンナン(ベトナム)・ルソン・カンボジアに修好を求める外交文書を国の代表者として送った。また全国の諸大名に江戸城と市街地造成の普請(ふしん)を、また国単位に国ごとの地図である(5)と、村ごとの石高を郡単位で記載しこれを一国単位にまとめた帳簿である郷(ごう)帳の作成を命じて、全国の支配者であることを明示した。
しかし、摂津・河内・和泉60万石の一大名になったとはいえ(6)が大坂城におり、名目的に父秀吉以来の地位を継承していた。1605(慶長10)年、家康は将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示すため、みずから将軍職を辞して子の(7)に将軍宣下を受けさせた。家康は駿府(すんぷ)に移ったが、(8)(前将軍)として実権は握り続け、豊臣氏が建立した京都方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)を口実に、1614〜15(慶長19〜元和(げんな)元)年、(9)(大坂冬の陣・夏の陣)で豊臣方に戦いをしかけ、攻め滅ぼした。
下図から読みとれるとおり、(10)は関東・北陸・近畿・東海道といった要地、米どころをおさえている。大名領の配置では、(11)領が(10)の周辺の要地に、有力な(12)領は江戸から遠い地に配置された。
答え
(1 )(2 )(3 )(4 )
(5 )(6 )(7 )(8 )
(9 )(10 )(11 )(12 )
解答
1北条 2石田三成(みつなり) 3関ヶ原 4征夷大将軍 5国絵図 6豊臣秀頼(ひでより)
7徳川秀忠(ひでただ) 8大御所(おおごしょ) 9大坂の役 10幕領 11親藩・譜代大名
12外様大名
(ワンポイント知識)
・徳川家康は将軍辞職後、駿府城に、2代秀忠は辞職後、江戸城西の丸に移り、大御所(前将軍)といわれた。その後、8代吉宗、11代家斉も大御所といわれた。
(センター試験 改)
大名について述べた文として正しいものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ 徳川氏の一族の大名は関東地方のみに配置され、江戸の防衛をはかった。
A 徳川家康のときに大名の配置を決めたのちは、大名の領地替えはなかった。
B 幕領に置かれた関東取締出役は、大名領には権限を行使できなかった。
C 明治政府のもとで大名は知藩事に任命されていたが、廃藩置県のときに罷免された。
解答 C
解説
@は誤。尾張徳川家や紀伊徳川家などにみられるように、徳川氏の一族の大名でも地方に配置された。
Aは誤。武家諸法度に違反した場合など、大名には改易・減封・転封などの処置がとられた。
Bは誤。関東取締出役は1805年に新設された役職で、「関八州」とよばれる関東地方の8カ国を幕領・大名領を問わず巡察した。
Cは正。大名は1869年の版籍奉還で知藩事となったが、1871年の廃藩置県で罷免されて東京居住を命じられた。かわりに中央から府知事・県令が派遣された。
