最終更新日2026年1月14日
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−政党内閣の成立−
次の文の( )に適する語句を入れ、図版の空欄に適語を答えよ。
国民の政治参加の拡大を求める民衆運動の力をまのあたりにした元老の山県有朋もついに政党内閣を認め、1918年9月、立憲政友会の総裁(1)を首班とする内閣が成立した。盛岡(南部)藩の家老の家柄に生まれた(1)だったが、華族でも藩閥でもない、衆議院に議席をもつ首相であったため、「(2)」と呼ばれ、国民から歓迎された。(1)は臨時外交調査委員会を舞台に、国際協調を軸とした対外政策を主導し、日本の満州権益開発方針についても、アメリカ・イギリス・フランスとのあいだに妥協点を見いだした。
一方、(1)内閣は社会政策や(3)制の導入には慎重で、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、小選挙区を導入するにとどまったが、(3)を要求する運動はしだいに高まり、1920(大正9)年には数万人規模の大示威行動がおこなわれた。これを背景として、(4)などの野党は衆議院に男性(3)法案を提出するが、政府は時期尚早(しょうそう)として拒否し、衆議院を解散した。立憲政友会は、年来の政策である(5)の拡充や高等学校の増設などの積極政策を公約として掲げ、小選挙区制の効果もあり、総選挙では圧勝した。
積極政策を掲げた立憲政友会だったが、1920(大正9)年におきた、大戦後の反動(6)によって財政的にゆきづまり、また党員の関係する汚職事件も続発した。(1)は1921(大正10)年、政党政治の腐敗に憤激した一青年により東京駅で暗殺された。総裁を引き継いだ(7)が後継内閣を組織したが短命に終わり、かわって海軍大将(8)が立憲政友会を事実上の与党として内閣を組織し、以後約2年間にわたって3代の非政党内閣が続いた。
答え
(1 )(2 )(3 )(4 )
(5 )(6 )(7 )(8 )
(9 )(10 )
解答
1原敬 2平民宰相 3普通選挙 4憲政会 5鉄道 6恐慌 7高橋是清(これきよ)
8加藤友三郎 9第一次護憲 10米騒動
(ワンポイント知識)
・「平民宰相」として民衆の歓迎と期待を集めた原敬だが、デモクラシーには理解が薄く、民衆運動を利用はしても、それと提携することには否定的的だった。
・大阪府の旧国名は河内、和泉、摂津。上本町あたりの坂がめだって大坂。または、湿地を意味する大洲処(オホスカ)が語源かとみられる。
(センター試験 改)
米騒動のあとに本格的な政党内閣が成立したが、その内閣について述べた文として誤っているものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@この内閣は、与党の支持基盤を固めるために小選挙区制を導入したが、民衆や野党が要求していた普通選挙には反対した。
Aこの内閣は、膨大な予算を計上し、交通機関の整備、産業の振興、軍備の充実などの積極政策を推進した。
Bこの内閣は、軍部大臣現役武官制を改正し、政党の軍部に対する影響力を強化しようとしたが、汚職事件が原因で総辞職に追い込まれた。
Cこの内閣は、朝鮮全土にひろがった三・一独立運動に対し、武力を行使して徹底的に弾圧した。
解答 B
解説
この内閣は、米騒動後に寺内正毅内閣にかわって成立した本格的な政党内閣である原敬内閣。
Bは誤。軍部大臣現役武官制を改正し、政党の軍部に対する影響力を強化しようとしたのは、第1次護憲運動後の第1次山本権兵衛内閣。
