最終更新日2026年1月9日
日本史の歴史地図へのお誘い
日本史の演習
−大正政変−
次の文の( )に適する語句を答えなさい。
1911(明治44)年、第2次西園寺公望内閣は、国家財政が悪化する中で組閣した。しかし、与党の政友会は積極的な財政政策を、商工業者は減税を、海軍は建艦計画の実現を、陸軍は朝鮮駐屯(1)師団増設をそれぞれ求めたため、内閣は困難な立場に立たされた。海軍は1907(明治40)年の帝国国防方針で、戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻のいわゆる八・八艦隊を長期目標にすえていた。1912(明治45)年7月、明治天皇の死去にともない、大正天皇が即位した。また、この頃、東京帝国大学教授の(2)が『憲法講話』を刊行し、(3)説や政党内閣論をとなえたことで、新時代に対する国民の政治的関心が高まった。一方、元老の山県有朋は、大正天皇の内大臣兼侍従長に、長州閥の一員で陸軍の長老であった(4)を選んだ。
中国でおこった辛亥革命と清朝滅亡という事態に対し、第2次西園寺内閣が明確な態度をとらず、また海軍拡張を優先しようとした内閣の姿勢を不満とする山県と陸軍は、(1)師団増設を内閣に強くせまった。西園寺首相が、これを財政上困難だとして拒絶すると、(5)陸相は単独で辞表を天皇に提出し、1912(大正元)年末、内閣も総辞職した。
元老会議は(4)を後継首相としたが、内大臣兼侍従長である人物が首相となるのは宮中と政府(府中)の境界を乱すとの非難の声がただちに上がった。ここに、立憲政友会の(6)と立憲国民党の(7)を中心とする野党勢力・ジャーナリストに、商工業者・都市民衆が加わり、「閥族打破・(8)」を掲げる運動として全国に広がった(これを(9)運動という)。(4)は非政友会系の新党組織をはかり、従来の元老政治からの脱却を掲げて内閣をたもとうとしたが、政友会と国民党が内閣不信任案を議会に提出し、それを支持する民衆が議会を包囲したために、1913(大正2)年2月、内閣は在職50日余りで退陣した(これを(10)という)。なお、(4)がはかった新党組織は、彼の死後の1913(大正2)年末、立憲国民党の離党者も加わり、(11)(総裁加藤高明(たかあき))として結党をみた。
(4)内閣が在職50日余りで退陣した((10))あとは、薩摩出身の海軍大将(12)が立憲政友会を与党として内閣を組織した。(12)内閣は行政整理をおこなうとともに、(13)を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣(14)を改めて予備・後備(こうび)役の大・中将にまで資格を広げるなど、官僚・軍部に対する政党の影響力の拡大につとめた。しかし、1914(大正3)年、外国製の軍艦や兵器の輸入をめぐる海軍高官の汚職事件(これを(15)事件という)の発覚により、都市民衆の抗議行動がふたたび高まり、やむなく退陣した。
これをみた山県・井上馨らの元老は、言論界や民衆のあいだで人気のある(16)を急きょ後継首相に起用した。第2次(16)内閣は、衆議院においては立憲政友会に比べて少数であった(11)を与党として出発した。翌1915(大正4)年の総選挙では、青年層を巻き込み、大衆的な選挙戦術をとった与党が立憲政友会に圧勝し、懸案の(1)師団増設案は議会を通過した。
(10)頃の日本を取り巻く国際環境はこの時期、変化していた。また、1910年の(17)併合、1911年の(18)の回復などからわかるように、明治以来の日本の諸懸案が解決をみたといえる。これにともない、国家を主導していた藩閥というまとまりも、政党・官僚・軍へと多元化し、解体していった。
答え
(1 )(2 )(3 )(4 )
(5 )(6 )(7 )(8 )
(9 )(10 )(11 )(12 )
(13 )(14 )(15 )(16 )
(17 )(18 )(19 )(20 )
(21 )
解答
1 2個 2美濃部達吉(みのべたつきち) 3天皇機関 4桂太郎 5上原勇作(うえはらゆうさく)
6尾崎行雄 7犬養毅(いぬかいつよし) 8憲政擁護 9第一次護憲 10大正政変 11立憲同志会
12山本権兵衛(ごんべえ) 13文官任用令 14現役武官制 15ジーメンス 16大隈重信 17韓国 18関税自主権
19第一次護憲 20桂太郎 21閥族打破
