最終更新日2025年7月1日
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日本史の演習
−執権政治−
次の文の( )に適する語句を入れ、下図の( )に適する語句をそれぞれのヒントを参考にして答えなさい。
承久の乱後の幕府は、3代執権北条(1)の指導のもとに発展の時期を迎えた。政子の死後、(1)は、執権を補佐する(2)をおいて北条氏一族中の有力者をこれにあて、ついで有力な御家人や政務にすぐれた11名を(3)に選んで、執権・(2)とともに幕府の政務の処理や裁判に当たらせ、合議制にもとづいて政治をおこなった。
1232(貞永(じょうえい)元)年には、(4)(貞永式目)51カ条を制定して、御家人たちに示した。この式目は頼朝以来の先例や、(5)と呼ばれた武士社会での慣習・道徳にもとづいて、守護や地頭の任務と権限を定め、御家人同士や御家人と荘園領主とのあいだの紛争を公平に裁く基準を明らかにしたもので、武家の最初の整った法典となった。
幕府の勢力範囲を対象とする式目と並んで、朝廷の支配下にはなお律令の系統を引く(6)法が、また荘園領主のもとでは(7)法が、まだそれぞれの効力をもっていた。しかし、幕府勢力の発展につれて公平な裁判を重視する武家法の影響は広がっていき、(6)法や(7)法のおよぶ土地にも武家法が影響を与えるようになり、その効力をもつ範囲が拡大していった。
合議制の採用や式目の制定、京都の文化を取り入れるなどして、執権政治の隆盛をもたらした(1)の政策は、孫の執権北条(8)に受け継がれた。(8)は1247(宝治(ほうじ)元)年に、(9)一族を滅ぼして(この戦いを(10)という)、北条氏の地位を確固たるものにすると、朝廷には政治の刷新と制度の改革を求めた。これを受けて後嵯峨(ごさが)上皇の院政下に(3)がおかれ、幕府は朝廷の内部に影響力をもつようになった。また(8)は、(3)の会議である評定のもとに新たに(11)をおいて(11)衆を任命し、御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ、敏速で公正な裁判の確立につとめた。
やがて幕府は藤原将軍にかわる皇族(親王)将軍として、後嵯峨上皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍として迎えると、皇族将軍は以後4代続くが、実権はなく名目だけの将軍にすぎなかった。さらに大陸の文化を受け入れ、禅宗の寺院である(12)を造営し、鎌倉を武家の都として整えていった。こうして執権政治は(8)のもとでさらに強化されたが、同時に北条氏独裁の性格を強めていった。
ヒント
13.北条泰時が新設した執権補佐役。公文書に執権と連名で署名加判した。
14.当初は北条氏一族や有力御家人に加えて、文筆の官僚を含めて11人が任命された。
15.裁判の公平・迅速を図るため、北条時頼が設置した訴訟審理機関。判決原案を作成、評定で判決。
16.承久の乱後、従来の京都守護に代わり、おかれた幕府の出先機関。
答え
(1 )(2 )(3 )(4 )
(5 )(6 )(7 )(8 )
(9 )(10 )(11 )(12 )
(13 )(14 )(15 )(16 )
解答
1泰時(やすとき) 2連署(れんしょ) 3評定衆(ひょうじょうしゅう) 4御成敗式目(ごせいばいしきもく)
5道理 6公家(くげ) 7本所(ほんじょ) 8時頼(ときより) 9三浦泰村(やすむら) 10宝治合戦
11引付(ひきつけ) 12(建長寺(けんちょうじ) 13連署 14評定衆 15引付 16六波羅探題
