最終更新日2024年11月3日
日本史の歴史地図へのお誘い
日本史の演習
−文化・文政時代、天保の改革−
次の文の( )に適する語句を入れ、下図の( )に適する語句をそれぞれのヒントを参考にして答えなさい。
11代将軍徳川家斉は、松平定信が老中を辞任したのち、文化・文政期を中心に在職し、1837(天保((てんぽう)8)年に将軍職を(1)にゆずったあとも、(2)として実権を握り続けた(これを(2)政治という)。約50年間の家斉の治世のうち、文化年間(1804〜18年)までは寛政の改革の質素倹約が受け継がれたが、文政年間(1818〜30年)に入ると、品位の劣る貨幣を大量に流通させ、物価は上昇したが幕府財政を豊かにした。また商人の経済活動もさかんになり、都市を中心に庶民文化が開花した。しかし、江戸を取り巻く関東の農村では、土地を失う百姓も多く発生し、無宿人や博徒(ばくと)らによる治安の乱れも生じたため、幕府は1805(文化2)年、(3)を設けて犯罪者の取締りにあたらせた。さらに1827(文政10)年には、領主の違いをこえて、近隣の村々を組み合わせた(4)をつくらせ、協同して地域の治安や風俗の取締りにあたらせて、農村秩序の維持などをはかった。
天明の飢饉後、寛政・文化・文政期は農業生産はほぼ順調であった。しかし、1832〜33(天保3〜4)年には収穫が例年より半分以下の凶作となり、全国的に米不足をまねいて、飢饉に見舞われた(これを(5)という)。1836(天保7)年の飢饉はとくにきびしく、そのため、もともと米が不足していた甲斐国郡内(ぐんない)地方や三河国加茂(かも)郡で一揆がおこった。大坂でも飢饉の影響は大きかったが、大坂町奉行は米不足にもかかわらず大坂の米を大量に江戸へ回送していた。これをみた大坂町奉行所の元与力で陽明学者の(6)は、1837(天保8)年に、貧民救済のために武装蜂起したが鎮圧された(これを(7)の乱という)。大坂という重要な直轄都市で、幕府の元役人であった武士が主導して、公然と武力で反抗したことは、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。その波紋は全国におよび、国学者(8)が(6)門弟と称して越後柏崎で陣屋を襲撃したり(これを(8)の乱という)、各地で不穏な動きが続いた。
また、1837(天保8)年、アメリカ商船の(9)が浦賀沖に接近し、日本人漂流民を送還して日米交易をはかろうとしたが、幕府は異国船打払令にもとづいてこれを撃退させた(これを(9)事件という)。この事件について、翌1838(天保9)年、(10)は『慎機(しんき)論』を、(11)は『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を書いて、幕府の対外政策を批判した。しかし、翌年、幕府はこれらに対して、きびしく処罰した(これを(12)という)。
幕府は、1841(天保12)年、11代将軍徳川家斉の死後、12代(1)のもとで老中水野忠邦(ただくに)を中心に幕府権力の強化をめざして天保の改革をおこなった。忠邦はまず将軍・大奥も含めた(13)を出して、ぜいたく品や華美な衣服を禁じ、庶民の風俗もまたきびしく取り締まった。この時、人情本作家の為永春水(ためながしゅんすい)らも処罰された。ついで百姓の出稼ぎを禁じて、江戸に流入した貧民の帰郷を強制する(14)を発し、農村の再建をはかろうとした。印旛沼(いんばぬま)の堀割(ほりわり)工事による干拓にも、再度取組みがなされた。
また物価騰貴の原因は、十組(とくみ)問屋などの株仲間が上方市場からの商品流通を独占しているためと判断して、株仲間の解散を命じた。しかし株仲間の解散はかえって江戸への商品輸送量を乏しくすることになり、逆効果となった。生産地から上方市場に商品が届く前に、(15)や瀬戸内海の他の場所で内海船(うつみぶね 尾州廻船)などにより、商品が売買されてしまうことがあったため、商品流通の基本ルートがこわされ、機能しなくなり始めたのである。そのため10年後の1851(嘉永(かえい)4)年に株仲間再興が許された。また、旗本や御家人の救済のため、幕府は棄捐(きえん)令も出し、あわせて札差などに低利の貸し出しを命じた。
一方、幕府は、相模(さがみ)の海岸防備を担わせていた川越(かわごえ)藩の財政を援助する目的から、川越・庄内・長岡3藩の封地をたがいに入れ換えることを命じた。つまり、川越藩が豊かな庄内藩へ、庄内藩が越後長岡藩へ、越後長岡藩が川越藩へ移るもので、(16)と呼ばれる。しかし、領民の反対もあって撤回され、幕府に対する藩権力の自立を示す結果となった。1843(天保14)年には、(1)が67年ぶりに(17)を実行して幕府の勢威回復をはかろうとしたが、大出費による財政悪化と、夫役(ぶやく)に動員された農民たちの不満をもたらした。さらに忠邦は、1843(天保14)年に(18)を出し、江戸・大坂周辺のあわせて約50万石の地を直轄地にして、財政の安定や対外防備の強化をはかろうとした。他地域に代替地は用意されたが、譜代大名や旗本に反対されて(18)は実施できず、忠邦は老中を退き、印旛沼工事も中止された。改革の失敗はあらためて幕府権力の衰退を示した。
ヒント
19.国学者が越後柏崎で陣屋を襲撃。
20.約240ヵ村、1万数千人が参加。物価の引き下げを要求。
21.大坂町奉行の元与力が周辺農民と武装蜂起。
22.農民による米価の引き下げ要求から一国に拡大。
23.浦賀・山川で砲撃をうけ退去。
24.洋学者の弾圧事件。
25.幕府は江戸市中に21カ所設け、5800人を収容し、打ちこわしの発生を未然に防いだ。
答え
(1 )(2 )(3 )(4 )
(5 )(6 )(7 )(8 )
(9 )(10 )(11 )(12 )
(13 )(14 )(15 )(16 )
(17 )(18 )(19 )(20 )
(21 )(22 )(23 )(24 )
(25 )
解答
1徳川家慶(いえよし) 2大(おお)御所 3関東取締出役(しゅつやく) 4寄場(よせば)組合
5天保の飢饉 6大塩平八郎 7大塩 8生田万(いくたよろず) 9モリソン号 10渡辺崋山(かざん)
11高野長英 12蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく) 13倹約令 14人返(ひとがえ)しの法 15下関 16三方領知替え
17日光社参 18上知(じょうち)令 19生田万 20加茂 21大塩 22郡内 23モリソン 24蛮社 25救い小屋