最終更新日2024年4月25日
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日本史の演習

ヤマト政権と政治制度

次の文の( )に適する語句を入れ、下図の( )に適する語句をそれぞれのヒントを参考にして答えなさい。
 5世紀後半から6世紀にかけて、大王を中心としたヤマト政権は、関東地方から九州中部におよぶ地方豪族を含み込んだ支配体制を形成していった。埼玉県の(1)古墳出土の鉄剣銘と熊本県の(2)古墳出土の鉄刀銘には、倭王武であり、(3)天皇にあたる大王名がともに記され、その統治を助けた豪族名がそれぞれみられる。
 ヤマト政権は、5世紀から6世紀にかけて(4)制度と呼ばれる支配の仕組みをつくり上げていった。豪族たちは氏(うじ)と呼ばれる組織に編成され、氏単位にヤマト政権の職務を分担し、大王は彼らに(5)を与えた。(5)としては、地名を氏の名とした近畿の平群(へぐり)・蘇我(そが)などの有力豪族に(6)、職掌を氏の名とした大伴(おおとも)・物部(もののべ)などの有力豪族に(7)、有力地方豪族に(8)、地方豪族に(9)の(5)があたえられている。(5)の実例としては、6世紀頃の島根県の(10)墳出土の大刀銘が古いとされる。
 中央の政治は(6)・(7)の豪族からそれぞれ(11)・(12)が任じられてその中枢を担い、その下の(13)が、職務に奉仕する伴(とも)やそれを支える部(べ)と呼ばれる集団を率いて職掌を分担した。また渡来人たちも、(13)や伴に編成され、品部(しなべ(ともべ))の集団がそれを支えた。有力な豪族は、それぞれ私有地である(14)や私有民である(15)を領有して、それらを経済的な基盤とした。また氏や氏を構成する家々には奴隷として所有されるヤツコ(奴婢)がいた。
 大王権力の拡大に対しては、地方豪族の抵抗もあった。とくに6世紀初めには、新羅と結んで筑紫国造(16)が大規模な戦乱をおこしたが、大王軍は(16)の乱を制圧し、九州北部に(17)を設けた。ヤマト政権は地方豪族を従属させ、直轄領としての(17)や、直轄民としての(18)・子代(こしろ)の部を各地に設けていった。

ヤマト政権と政治制度

ヒント
19.ヤマト政権の地方官。現代の郡程度の地域を支配。律令体制下では郡司となる。
20.世襲的職業で朝廷に仕える官人の団体を伴、伴を率いて朝廷に仕える長。
21.たとえば、馬飼部や史部のような宮廷官的なものや、錦織部や陶作部のような、生産にたずさわるものなどがある。
22.渡来人や地方豪族の私有民を集団的に移住させて編成した。朝廷の管理下にあった。

答え
(1          )(2          )(3          )(4          )
(5          )(6          )(7          )(8          )
(9          )(10          )(11          )(12          )
(13          )(14          )(15          )(16          )
(17          )(18          )(19          )(20          )
(21          )(22          )

解答
1稲荷山 2江田船山 3雄略 4氏姓(しせい) 5姓(カバネ) 6臣(おみ) 7連(むらじ) 8君(きみ)
9直(あたい) 10岡田山1号 11大臣(おおおみ) 12大連(おおむらじ) 13伴造(とものみやつこ)
14田荘(たどころ) 15部曲(かきべ) 16磐井 17屯倉(みやけ) 18名代(なしろ) 19国造 20伴造 21品部
22田部



(この問題は『日本史演習問題』に収録されています。また、問題で使われている地図・図版は『日本史地図・図解集』に収録されています。)